鹿児島教区の恩人、結城了悟神父
さる11月17日、キリシタン史家で、1962年の開設以来40年余りにわたって日本26聖人記念館(長崎市)の館長を務め、また四半世紀に及ぶ188日本殉教者の列福調査の中心となって働いた結城了悟神父が、念願の列福式を前に亡くなった。86歳だった。神父はわが鹿児島教区にとっても忘れることのできない恩人である。
スペイン出身の結城神父は1946年、イエズス会宣教師として来日した。当時、パチェコ・ディエゴを名乗っていた神父は78年に日本国籍を取るが、1636年に殉教し、今回列福されたディエゴ結城了雪にちなんで日本名をつけた。わたしは鹿児島司教として赴任する前、長崎にいて彼と親しくしていたこともあり、鹿児島に来てあらためて結城神父の協力をお願いすることになった。
長崎県で生まれて育ち、長崎教区に一生を捧げていたわたしは鹿児島の土地柄が良くわからなかったから、鹿児島赴任後、この地を知ることが一つの最初の仕事になった。その土地を知るにはその歴史を知ることが一番であるが、そのための格好の本を見つけた。南日本新聞社が明治百年を記念して編纂した『鹿児島百年』である。上中下三巻のこの本は上が幕末編、中が明治編、そして下が大正昭和編で実によく編まれている。むさぼるように読み、鹿児島の風土についてのにわか仕込みの知識を身につけた。
しかし、『鹿児島百年』にはキリスト教関係の歴史については触れておらず、あったのは明治の初め、配流の浦上キリシタンを扱った明治編第10章「お預けキリシタン」のみであった。聖フランシスコ・ザビエルが日本最初のキリスト教宣教師として鹿児島に上陸したことは無論知っていたが、その後のキリシタンの歴史はほとんど知らなかった。それを知らなければ鹿児島での宣教・司牧はできないと感じたが、まとまった鹿児島キリシタン史がないことにも気がついた。そこで早速長崎のパチェコ神父に連絡を取ってその執筆をお願いした次第。友だちとはよいもので、神父は二つ返事で引き受けてくれた。
こうして、1975年(昭和50年)7月1日、『鹿児島のキリシタン』が地元の春苑堂書店から発行された。著者は「パチェコ・ディエゴ」となっている。日本帰化の前だった。ちなみに本書の目次を紹介しておこう。1-薩摩の玄関―種子島、2-ザビエルの書簡から、3-われらのフランシスコ・ザビエル、4-種子島とザビエル、5-ルイス・デ・アルメイダの第一回訪問、6-山川港とイエズス会、7-九州の戦乱、8-関が原の戦いから薩摩における迫害まで、9-港の冒険、10-種子島の追放者、11-屋久島の日暮れ、12-浦上のキリシタン。種子島の鉄砲伝来から明治の初めまでの薩摩のキリシタン史が簡潔かつ平易に綴られている。結城神父の文章はわかりやすく簡潔で、詩的なところがあって好感が持てる。
その年の8月15日、始めての教区主催「ザビエル祭」のあと、正午からザビエル会館二階で出版記念会が、著者パチェコ神父はもちろん、県知事代理、山之口鹿児島市長はじめ、鹿児島図書館長や郷土史家その他、多くの来賓を迎えて意義深く行われた。「鹿児島県人として、かねてから欲しいと思っていたものがやっと出て喜ばしい。ザビエルが身近なものと感じられるようになった」とこもごも祝辞を述べた。パチェコ神父はこの本が出るまでを思い起こし、「種子島や鹿児島を歩き回って、鹿児島県民の暖かい心にふれることができて嬉しい」と喜びを語った。
『鹿児島のキリシタン』は1987年に改訂出版されたが、当然のことながら著者名パチェコ・ディエゴは結城了悟に変更されている。
結城神父によるもう一つの著書がある。小伝記『薩摩の殉教者・レオ税所七右衛門』である。すでに日本司教団はレオ七右衛門を含む188人の日本殉教者の列福を一括申請していたが、結城神父は1985年、真っ先に鹿児島の殉教者の伝記を日本26聖人記念館から出版してくれたのである。この伝記出版で特筆すべきは、それまで確かでなかったレオ七右衛門の出身地が宮崎県都城市であることを確認したことであるが、彼はそのために都城市まで出かけてレオ七右衛門の系図を発見した郷土史家・児玉三郎氏に会い、帰りには鹿児島に立ち寄って事情を報告すると同時に、小伝記の全原稿をわたしに手渡して序文を依頼したのだった。
わたしはいま、神父への感謝を新たにしながら、その永久の安息を祈っている。
- Category(s)
- 気ままに随筆
- The URL to Trackback this entry is:
- http://mr826.net/psi/blog/081210/tbping
人々を教会に招くクリスマス
クリスマス・シーズンを迎えて、わたしは今、長崎・八幡町教会時代を思い出している。若かったとはいえ、クリスマスは重労働の二日間だった。24日の朝から青年たちの協力を得て教会の飾りつけに汗を流し、夕方7時から二時間は「クリスマス・レセプション」、そして11時から真夜中のミサ、ミサ後は明け方まで高校生や青年たちとのお付き合い、25日は早朝のミサと日中のクリスマス・ミサ、そして午後2時からは「クリスマス子どもの集い」と続いた。でも、あの疲れは快い疲れだった。
新設の八幡町教会の初代主任司祭になる前、司教館に勤務していたころ、カトリック青年労働者連盟(J.O.C.)の大浦教会女子組会(J.O.C.F.)の指導司祭として関わっていた。当時、J.O.C.の年中行事として、各組会で「クリスマス・レセプション」が行われていた。これは、会員たちがカトリック信者ではない職場の仲間を教会に招待してクリスマスの喜びを分かち合うもので、クリスマス・イブに、まず聖堂内で「キャンドル・サービス」と称して灯したローソクを手にクリスマス聖歌を歌い、詩の朗読を聞いて、しばし敬虔な祈りの雰囲気を分かち合った後、場所を変えてパーティーに移り、最後に持ち寄ったプレゼントを交換して散会する二時間あまりの催しである。
なかなかしゃれた楽しいレセプションは、クリスマスにおける教会のあり方について大きなヒントを与えるものだった。つまり、戦後、多くの日本人はキリスト教に対して戦前のような嫌悪感を持たず、少なくともクリスマスにはできたら教会に行ってみたいと思っている。しかし、クリスマス(キリストのミサ)の名のとおり、クリスマスの中心はミサであるが、洗礼を受けていない者は「聖体の典礼」に参加する資格がなく、その前の「言葉の典礼」には参加できるので、印象的なキャンドル・サービスの形でこれを行おうという趣向である。この思いは、わたしが主任司祭になったとき、その実現の時を迎えたのだった。
1)大人のためのクリスマス・レセプション
これは、高校生以上の大人の所属信者たちが各自個々に信者ではない友だちを教会に招待して行う集いで、J.O.C.のクリスマス・レセプションに準じて行った。まず二階の聖堂で第一部「ことばの祭儀」。各自灯したローソクを手にクリスマス聖歌を一緒に歌い、キリストご降誕の聖書朗読のあと講話を聴き、黙想して聖歌を歌う。第二部は一階の幼稚園ホールでのパーティーで、信者たちの接待を受けながら、毎年変わるかなり派手な余興を楽しみ、最後に持ち寄ったささやかなクリスマス・プレゼントを交換して散会するのである。もし希望する人があれば、もちろん真夜中のミサにもオブザーバー参加が認められ、実際に参加する人たちがいた。
日ごろから布教のために何かしたいと望んでいた信者たちはこの催しに積極的に協力した。
250人から300人に達したお客さんで聖堂も幼稚園ホールも満杯であったが、荘厳な雰囲気のキャンドル・サービスでは神の御子の誕生の神秘に静かに浸り、レゼプションでは和気藹々のうちにクリスマスの喜びを分かち合い、「また来年も」と言い交わして散会したものだ。わたしは大人の信者たちが、機会さえ与えられれば、喜んで、また積極的に布教に協力する姿に大いに満足した。
2)クリスマス子供の集い
これは信者の小・中学生各自がカトリックではない友だちを教会に招き、クリスマスの喜びを分かち合おうというもので、25日午後行われた。手順は大人のクリスマス・レセプションと同じであるが、信者の小・中学生が接待の一切の仕事を担当することと、余興は信者の子供たちが早くから準備をしてきた「クリスマス聖劇」を演じることであった。大人たちは裏方に徹して、決して会場には姿を見せなかったが、信者の小・中学生たちは主宰する教会側を代表してホスト、ホステスに徹し、司会、お茶組み、サンタクロース役など精力的にこなした。また、催し全体が規律よく進行し、教会らしい、そしてクリスマスらしい和やかで敬虔な雰囲気を大体において保つことができた。わたしはこのクリスマス子供の集いに満足していた。そして、この信者の子供たちが子供心に布教の具体的な体験を将来につなげて欲しいと心から願うのであった。
今年も、多くのカトリック教会でクリスマスのミサが盛大に行われ、少なからぬ市民が見学に訪れることであろう。だが、もう一歩進めて、個々の信者が、自分の友だちを進んで教会に案内し、多くの市民が単なる無名の参観者としてではなく、名指しして招かれた客として、主体的にクリスマスの祝いに参加できる企画があれば、教会を中心とした交わりの輪を一挙に広げる機会になるのではないかと、今も思っている。
- Category(s)
- 気ままに随筆
- The URL to Trackback this entry is:
- http://mr826.net/psi/blog/081225/tbping
コメント欄を活用して、対話の機会にすることができればと願っています。
ただし、記事や本サイトの趣旨と関係のないコメントはご遠慮下さい。