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現役を退いて暇になると、何かにつけて過ぎし日を思い出し、また、いろいろと考えごとをしてしまう。こうした折々の想いをインターネットに公開して、多くの方々と分かち合おうというのがこのサイト。
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ザビエル上陸記念碑、建立から30年

by P.Itonaga posted at 2008-04-10 15:21 last modified 2008-04-11 04:13
ザビエル上陸記念碑

鹿児島市新祇園の洲にある「ザビエル上陸記念碑」(写真)の除幕から今年は30年になる。除幕式は1978年4月23日、折からの桜島の降灰を含んだ豪雨と強風の中で行われた。

それは、万里の波濤を越えてやってきたザビエル一行の苦難を想起させるものであった。1549年6月24日、洗礼者聖ヨハネの誕生の祝日にマラッカを出帆したザビエル一行は、8月15日、聖母被昇天の祝日に鹿児島に到着するのであるが、52日にわたる危険な海路は、アバン船長の娘が嵐の海に飲まれて死に、船長自身も鹿児島滞在中に死亡しているように、まさに命がけの旅であった。

除幕式に参加した来賓は、九州の里脇浅次郎長崎大司教、平田三郎福岡司教、平山高明大分司教のほか、駐日バチカン大使マリオ・ピオ・ガスパリ大司教、ホセ・アラゴネス駐日スペイン大使、イエズス会のディータース管区長、地元からは鎌田要人鹿児島県知事、山之口安秀鹿児島市長らであり、両大使及び知事と市長は立派な祝辞を述べた。

ザビエル上陸記念碑は鹿児島教区創立50周年(1927~1977)の記念事業として鹿児島教区が建立したもので、それは同時に、初のキリスト教宣教師の渡来地、キリスト教伝来の地としての鹿児島教区が聖フランシスコ・ザビエルに捧げる顕彰事業の一環でもある。鹿児島教区では1975年以来、教区行事として毎夏「ザビエル祭」を実施してきた。なお、記念碑は除幕式の中で、市との交渉の窓口として教区が設置した「ザビエル上陸記念碑建設委員会」松村仲之助委員長から鹿児島市に寄贈された。ザビエル顕彰の一端を市にも受け持ってもらうためである。山之口市長は丁寧に礼を述べた。

記念碑が建っている場所(新祇園の洲)はもちろんザビエル一行が上陸した正確な地点ではない。しかし、多くの歴史家によってザビエル上陸地とされる稲荷川河口の「戸柱港」は次々と埋め立てられており、新祇園の洲は埋立地の先端に位置する。この地が決められたのにはこんな事情がある。わたしははじめ、稲荷川河口にある「祇園の洲」公園に建てたいと思って山之口鹿児島市長を訪ねたのであるが、市長は「祇園の洲は西南戦争ゆかりの官軍墓地だから適当ではないのではないか」と言い、現在埋め立てが進行している「新祇園の洲」の一角を喜んで提供したいと申し出られた。わたしはすぐに了承し、ありがたくお受けした。この地はまさに稲荷川河口で海に面していて、ザビエルも仰いだ桜島も目前に聳えており、ザビエルの鹿児島上陸を偲ぶには最適と思われたからである。山之口市長の好意はいつまでも忘れてはいけないと思っている。

ザビエル上陸記念碑の前に立つと実に様々な想いが脳裏に浮かぶ。

1)聖母の導き。ザビエルはその大書簡(第90)の中で、「こうして神は、私たちがあこがれていたこの地にお導きくださり、1549年8月、聖母の祝日に到着したのです」(河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』平凡社)と万感込めて書いている。1575年、ルイス・フロイス神父とオルガンチーノ神父は、織田信長の許可とダリオ高山らの応援を得て京都に初の教会堂を建て、ザビエルが鹿児島に到着した聖母被昇天の祝日にちなんで「被昇天の聖母マリア」を守護者として「みやこ」の教会をこれに委ねた(柳田武夫訳フロイスの『日本史』第百五章参照)。こうした経緯を思うにつれ、わが日本に初めてキリストの福音が伝えられた歴史的出来事の背景に、神の妙なる摂理と聖母の尊い導きがあったことをわたしたちは信じて疑わない。

2)ザビエルの純粋な宣教師魂。ザビエルは、ポルトガル国王の「保護権」の及ばない日本に、ポルトガル船ではなく、シナ人アバンのジャンク(約300トン)で渡来した。ポルトガル国の威光や国策に頼らず、冒険家や商人のように人間的な栄光や金銭も求めず、ただ一宣教師として、純粋にキリストを宣べ伝え、日本人の魂を救うためだけに来日したのである。このことを知った日本人は驚嘆したという。二心のない献身的な愛の気高さ、有り難さは万民に通じる。

3)ザビエルは一人で来たのではなく、トルレス神父、フェルナンデス修道士、インド人アマドル、シナ人マヌエル、日本人パウロ(ヤジローまたはアンジロー)、ジョアン及びアントニオの7人を伴っていた。この7人はそれぞれにザビエルを助けた。特にトルレス神父はザビエルの遺志と構想を継ぎ、1570年、志岐で亡くなるまで各地を巡って日本宣教の基礎を築いた。ザビエルの宣教は彼一人の単独行動ではなく、まさに教会共同体としてのグループダイナミクスを生かした活動であった。今日においても、福音宣教は教会の組織的かつ計画的な事業である。ザビエルはその意味でもわたしたちの模範である。

 

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ザビエル上陸記念碑の建設秘話

by P.Itonaga posted at 2008-04-25 00:00 last modified 2008-04-11 12:09
ザビエル450年祭ポスター

前回、鹿児島市新祇園の洲にあるザビエル上陸記念碑の除幕30周年について語ったが、ことのついでに、記念碑をめぐる幾つかの思い出を記してみる。

まず、記念碑の製作者は当時の東京芸大ルイ・フランセン神父である。神父は長崎時代に知り合ったわたしの友人で、淳心会に所属するベルギー人宣教師であった。1975年のある日、わたしは東京世田谷の松原教会に神父のアトリエを訪ね、ザビエル上陸記念碑について話し、協力を求めた。彼は二つ返事で承諾し、すぐに記念碑の構図のスケッチを始め、潮風をかぶる場所だから材質は陶製レリーフにしたいとも語った。彼はJR山手線田町駅に西郷隆盛と勝海舟会見の図を陶製レリーフで仕上げたばかりであった。わたしは彼の意見にすぐに賛成した。出来上がった記念碑の構図はあのスケッチそのままで、鹿児島の土地を表す土色の信楽焼である。このHP冒頭の写真がそれである。

神父は製作に当たってコンセプトを「異文化の出会い」に求め、ヤジローに案内されて上陸するザビエルとこれを迎える薩摩の人々との出会いを描いている。ザビエルと同じ宣教師である神父は、自らをザビエルに重ね合わせながら、深い精神的な出会いを構想したに違いない。「その交流の継続である記念碑製作の機会を与えてくださった方々に深く感謝したい。今わたしの心は喜びでいっぱいである」と心境を語っている。

上陸記念碑の横には、白いコンクリートの柱に宙づりにされた「翔んでるザビエル」のブロンズ像がある。製作は当時同じ芸大の吉野毅氏で、このザビエル像は99年の「ザビエル渡来450年祭」のポスターを飾った(写真)。彼はその年の夏、たまたま訪れた鹿児島の町でこのポスターを見つけ、その後記念祭にも参加した。そして「彫刻には生かされている彫刻とそうでない彫刻があります。祇園の洲のザビエル像はまさに前者で、幸せな彫刻であることを実感しました。そして製作者である私も彫刻家であってよかったと思います」と話した。

ザビエル上陸記念碑の立つ場所については前回述べたが、山之口市長にお会いして市有地の提供をお受けした際、市長は言った。「今回の記念碑建立は重要な歴史的出来事を記念し顕彰する文化事業ですが、市が一宗教法人に便宜を供与するものと誤解して反対する市議会議員が出てくる恐れがあります」と。そこでわたしは、市との交渉の窓口として「ザビエル上陸記念碑建設委員会」を立ち上げ、松村仲之助氏に委員長をお願いした。松村氏は熱心なカトリック信者で地元では知られた弁護士、当時、県選挙管理委員長の任にあったが、快く承諾し、誠実に委員長の使命を果たしてくださった。その後も市民団体「ザビエル顕彰会」の会長として活躍されたが、惜しくも450年祭の直前に亡くなられた。

記念碑の左隅に小さな自然石の石文(いしぶみ)があり、キリストの言葉、「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったならば、なんの益になろうか」(マタイ16、26)という聖句が刻まれている。松村委員長はこの聖句が大好きで、特にラゲ訳にして欲しいと言われたが、残念ながら、文語体になじまぬ若者たちを考慮して口語訳にさせてもらった。ちなみにラゲ訳は「人全世界を儲くとも、その魂を失わば何の益かあらん」である。

お察しの通り、この石文がザビエル上陸記念碑の横に立てられたのにはわけがある。貴族の身分ゆえに約束された華麗な高位聖職者を夢見る野心家ザビエルは、1533年、哲学教授としてパリで活躍中、畏友イグナチオの感化を受け、27歳で「大回心」を遂げるが、イグナチオはこの聖句を繰り返しザビエルに言い続けたという(尾原悟著『ザビエル』清水書院)。わたしも子供のころからそう聞かされてきた。しかし、『聖フランシスコ・ザビエル全生涯』(平凡社)の著者、河野純徳神父は、「しかし、シュールハンマー(筆者注・ザビエル研究の第一人者)はこの聖句に少しもふれていない。若い野心家を回心させた経過全体を要約して、伝記作家が引用した聖句であろうと思われる」と書いている。

その真偽はともかく、アジアの宣教師としてインドにあったザビエルは、教会への協力をおろそかにして財貨の獲得に熱心なポルトガル国王ジョアン3世に苦言を呈し、この聖句を書き送っている(ポルトガルのシモン・ロドリゲスに宛てた『書簡第63』)。もしザビエルが今日あれば、経済大国の夢を捨てきれない日本人に対して、この聖句を繰り返し投げかけるのではなかろうか。その意味でも、ザビエル上陸記念碑には欠かせない聖句だと思う。

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