尊者・ピオ12世のことども
昨年12月19日(土)、教皇ベネディクト16世は、教皇ピオ12世と教皇ヨハネ・パウロ2世の英雄的な徳を認め、2人を「尊者」(Venerabilis)とすることを宣言した。列聖に向けて調査が始まると、まず「神のしもべ」(Servus Dei)と呼ばれ、その人物の生涯が英雄的な生き方であったことを公認するときに「尊者」と呼ばれる。この段階では公的崇敬の対象とはならない。
ヨハネ・パウロ2世の教皇職在位はわたしの司教職在位と完全に重なるから、何度も直接お会いする機会があったが、ピオ12世の教皇職在位(1939-1958)はずっと古く、わたしの神学生時代(1941-1953)がすっぽりその期間に入ってしまう。わたしがピオ12世にお会いしたのは一度だけ、それも1953年の夏、教皇のカステルガンドルフ夏季別荘で行われた一般謁見のときであった。ま近かに仰ぐお姿に感動もひとしおだったが、覚えているのはただ、謁見の最後に祝福を与えるため、長身を純白のスータンに包んだ教皇が両手をまっすぐ横に延ばし、天を仰いで祈る一瞬の神々しいまでのお姿だけで、今も脳裏に焼き付いている。
ピオ12世の生涯と業績の全貌はいずれ公表されるであろう。ここではわたしの司祭職への歩みを照らし力づけてくれた記憶のいくつかを想起して教皇を偲びたいと思う。
ピオ12世についてまず思い起こすのは回勅”Mystici Corporis”(キリストの神秘体)である。1943年(昭和18年)6月29日に公布されたこの回勅は、太平洋戦争の真っただ中にあったためわが国で知られることはなかった。日本語に翻訳されたのも10年後の1953年であった。しかし、キリストの神秘体という、見える教会の見えない霊的な側面を解明した回勅の教えは戦後には知られ、それまでの教会認識を見直すと同時に、何世紀もわたって誤解され強調されてきた個別的、孤立的な霊性から教会の交わりの中で生きられる共同体的な霊性へと転換して、新しい時代を切り開く契機となった。
1950年8月12日に公布された回勅”Humani Generis”(人類の起源)もまた、わたしの信仰と司祭職への歩みを照らした画期的な教えであった。キリスト教信仰に重大な脅威を与えた近代の思想的誤謬を指弾し、真理認識における人間理性の能力と限界、人間理性を照らし完成する神的啓示の重要性を説いた回勅は、ダーウィンの進化論に対する教会の姿勢を明示するほか、人類の起源を物語る創世記の歴史性を強調して、創世記の記述は今日的な科学書ではなく、当時の人々の通念に基いて人間と世界の創造と主宰に関する神の介入を教える宗教的な記述であることを強調している。
同じく1950年11月1日に公布された使徒憲章“Munificentissimus Deus”( 恵みあふれる神)は、聖母被昇天を信ずべき教義であると宣言する「教皇座宣言」(ex cathedra)と呼ばれるもので、第1バチカン公会議が確認した教皇の不可謬権に基づく教義宣言であり、聖霊に守られて教会の信仰・道徳の教えを誤りなく保ち解説する教皇の教導職の重要性をあらためて実感させるものであった(註1)。
ところで、ピオ12世の尊者宣言について、欧米ではこれを批判し、反対する議論が結構うるさいようであるが、それは、ピオ12世がナチスのユデア人迫害(ホロコースト)に直接反対しなかったという従来の非難の蒸し返しであるが、教皇はヒトラーを直接非難して最悪の事態を招くことを避け、密かにユデア人の救済に努力したともいわれる。いずれにしろ、教皇の使命は、本来、宗教的かつ司牧的なものであって、従って、教皇はいかなる国の失政の責任を負うことはあり得ない。ピオ12世の治世は、ナチス・ドイツのホロコウストを始め、共産主義政権が粛清の名で行った大量の処刑や、第2次世界大戦において行われた大量虐殺事件、さらには無差別爆撃や原爆投下による大量の市民殺害など、野蛮な世紀と言われた20世紀のもっとも野蛮な時期に当たっており、その間、教皇が発した多くの公文書や演説、ラジオ・メッセージなど、その福音的な平和使信のすべてが、世界全体が犯した一切の野蛮行為に対する痛烈な抗議であり警告であったと言わなければならない。何よりも今回の尊者宣言そのものがピオ12世教皇の無実の証しであるばかりでなく、その英雄的特性の確認であって、近々に期待される列福や列聖によってその聖性はさらに輝かしく証明されることになろう。わたしはそう期待している。
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(註1) 教義宣言は聖母の被昇天について聖書と聖伝のから説き起こした後、述べる。
「それゆえ、神に絶えず祈りかつ懇願し、真理の霊の光を呼び求めたうえで、処女マリアへの特別のいつくしみを惜しまない全能の神の栄光のため、また、世々にわたる不滅の王であり、罪と死に対する勝利者である御子の誉れのため、その偉大な御母の栄光のいや増しと全教会の喜びと歓喜のため、われらの主イエス・キリストと至福なる使徒ペトロとパウロ、そしてわたし自身の権威により、われわれは次のことを宣言し、公布し、決定する。すなわち、無原罪にして終生処女なる神の母マリアが、地上の生活の終わりに、霊魂においてばかりでなく肉体においても天の栄光に上げられたことは、神の啓示に基づく教義である」(筆者訳)。
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なぜ、この世に罪があるのか
わたしがまだ大神学院の哲学科にいたころ、大窄教授はいった。「悪とはあるべき善の欠如である」(malum est defectus boni debiti)。そして、自分の頭を指さして「これたい、これたい」と言った。見ると、そこにはあるべき髪の毛がなかった。みんな大笑いしながら納得したものである。悪には物理的悪と道徳的悪があり、道徳的悪を罪と呼ぶことは周知の通り。
ところで、「罪の現実、わけても原罪の現実は、神の啓示に照らしてしか明らかにならない」(カトリック教会のカテキズム387)。罪の真相は「人間が神に結ばれている深いきずな」(同上386)を前提としているからである。実際、聖書は人祖アダムが悪魔の誘惑により、神に背いて不従順の罪を犯したと証言している(創世記第3章)。聖パウロは解説して、「一人の人間の罪によってすべての人間が有罪とされたように、一人の人間の正しい行為によって、すべての人間が正しい者とされ、いのちを与えられたのです。実に、一人の人間の不従順によって多くの者が罪びとにされたのと同じく、一人の従順によって多くの者が正しい者にされます」(ローマ5,18-19)。
原罪のほかに、人間は罪を犯す。創世記は、「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている」と述べ、「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた」(6,5・11) と述べるが、聖書には、ありとあらゆる罪の話がある。そして、これらの罪は、たとえ人や自然に対して犯されるものも、すべて至聖なる神への不従順であり忘恩であるので、その悪質性は無限だと言われ、有限の人間自身にはいかようにも償い得ないものである。「神ひとりのほかに、だれも罪を赦し得ない」(マルコ2,7)のである。
それゆえ神は人類の救いを約束され(創世記3,15)、そして、時満ちて御独り子を救い主として世に遣わされた。聖書は言う。「神はこの独り子を与えるほど、この世を愛した。それは、御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3,16)。聖パウロは解説して言う。「わたしたちが罪びとであったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことによって、神はわたしたちに対するご自分の愛を示されているのです」ローマ5,8)。聖ヨハネは言う。「わたしたちが神を愛したからではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪のために、あがないの供え物として、御子を遣わされました。ここに神の愛があるのです」(1ヨハネ4,10)。
ここにきて、神は人間が、被造物としての限界の故に、さらには悪魔の誘惑に打ち勝てない弱さのゆえに、罪を犯すことをなぜ容認されたかがわかる。聖アウグスチノは言う・全能の神は、・・・最高に善であられるので、」悪からでも善を引き出すほどに力ある善い方でなかったとしたら、その業のうちに何らの悪の存在もゆるさなかったはずである」。たとえ悪魔の妨害があり、人間の罪があったとしても、全能の父なる神は人類の救いに関する愛のご計画を必ず実現されるということであろう。この神の愛の神秘をたたえて、聖パウロは「罪が増えたところには、恵みはさらにいっそう豊かになりました」(ローマ5,20)と称えている。教会もまた、「おお、幸いなる罪とがよ」(復活賛歌)と、神の御子を地上に呼び下した人間の罪をたたえて歌ってきた。まさに、罪の神秘は神の愛の神秘に直結しているのである。
さる2月17日の灰の水曜日をもって今年の四旬節が始まった。あらためて罪の神秘と神の愛の神秘をじっくり黙想する季節にしたい。
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Re:なぜ、この世に罪があるのか
最近よく頭を巡るのは、マタイ伝9章の『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」という主イエスの御言葉です。パラドックス的な表現かもしれませんが、罪がある(自己にある罪を認識するようになる)からこそ、キリストの存在が最高に有益であると思うようになりました。真の善・義・真理を知ってこそ、悪・罪・非真理が何であるかを知るに至るのだと思っています。この罪深い世で義を行なって生きていくことは、易しいことではありませんが。
コメント欄を活用して、対話の機会にすることができればと願っています。
ただし、記事や本サイトの趣旨と関係のないコメントはご遠慮下さい。
なお、お察しの通り、長々とした挑発にはいちいち反論するつもりはありません。ただ、必要なら、わたしの真意については簡潔に答えるつもりです。
>なお、お察しの通り、長々とした挑発にはいちいち反論するつもりはありません。
アーメンです。しかし、このように考える人もいるという事実を見る時、過去あれほどまでに偉大な殉教者を数多く出してきた歴史を持つ反面、天の前には本当に罪多き民族だと感じ、主に許しを求めました。日本国に一日も早く「神様の国」が臨むように、主の祈りを繰り返し唱えたいと思います。
ブログ主様がそのようにお考えとは残念です。私は、まず、ブログ主様のコラムに疑問を持ち、それに対する批判をしました。次に、私の論述に対してブログ主様、複数の投稿者の反論を受け、再反論しました。これを、二度行いました。それを挑発と取られるのは、非常に残念です。正直私の論述に対する反論は、私の問いかけに対して真正面からの反論が一つもなかったので、再反論をするのは大変でしたが、誠心誠意論述しました。残念ですがブログ主様がそのようにお考えでしたら、仕方がありません。
satoru yuuki様、私の論述に間違いがあるのでしたら、はっきりと仰ってください。投稿者同士が、議論をするのは如何かと思いますが。私は、キリスト教徒に対する日ごろの疑問を述べているだけです。
>天の前には本当に罪多き民族だと感じ、主に許しを求めました。
我が日本民族が罪深き民族である根拠を教えてください。