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教育基本法改正案をめぐって

by P.Itonaga last modified 2006-11-27 23:31

教育基本法の改正をめぐって、教育本来の意味や担い手、公教育の使命や限界について、検証する。

 教育基本法の改正がいよいよ現実の問題になってきた。安倍内閣が優先事項として教育改革を政治日程に入れ、私的諮問機関「教育再生会議」を設置して作業のスピード化を図ろうとしているからである。そこで、私自身は教育基本法自体やその改正の是非について何れの政治的立場にも与しないが、この機会に教育本来の意味や担い手、公教育の使命や限界など基本理念について考えてみたい。

教育問題見直しのとき

本論に入る前に、わが国の教育事情は大きな岐路に立っており、教育問題を根底から見直すべきときはすでに来ていることを指摘しておこう。青少年を取り巻く環境が大きく変わり、教育のひずみがいたるところに噴出しているからである。この変化の最大のものは、家庭教育の崩壊とメディアの影響の増大であろう。

 教育基本法改正案について

そこで、さきに自民党が公表した「教育基本法改正案」なるものを読んでみた。そこには教育に関連するあらゆる事項が立派な言葉で指摘されており、一見、大変結構なものに見える。しかしその実、基本法というにはあまりにも基本的な教育理念が欠けているように思えた。何よりも、法案は冒頭から「日本国民」が強調されて、日本人である前に人間であるという万人共通の普遍的な観点が出てこないのは、日本の法案であるとはいえ、問題ではないかと思う。

教育とは何か

では、教育とは何か。それは人間が「人間になる」ために不可欠な営みである。人間が人格としての「高貴な召命と使命」に目覚め(人格の形成)、それを生きて自己を実現(人格の完成)するには、相応の教育を必要とするからである。

たとえば、精神的な存在である人格の形成には宗教教育を基本にすえた全人教育が重要であるが、そのような教育は、特定の宗教教育を行うことのできない公立学校に期待することはできない。改正案にはこのあたりの明確な指摘がなく、公教育を充実させればそれができるかのような印象を与える。

本来の人格教育は、両親の宗教的信念のもとにまず家庭において行われなければならない。子供に教育を授けるという第一の権利と義務は、誰よりも子どもにいのちを授けた両親に、究極のいのちの原理である神から与えられているからである。従って、家庭の再生なくして教育の再生はありえない。その上、両親はその責任を果たすために、必要な学校を選ぶ自由(権利)を持っている(註1)。親たちが自身で必要な教育を施すには明らかに限界があるからである。

 公教育の使命と限界

そこで国は、親の権利を擁護して家庭教育を支援するとともに、現代人が必要としている学校など、教育機関を充実して親の使命を補完しなければならい。国の教育権はもともと「補完的な任務」なのである(註2)。教育基本法改正案を見る限り、国本来の教育的使命とその限界が明確でないから、政治家たちが教育の国家統制に走る恐れはないか心配である。

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(註1)両親の学校選択の自由について

  「子どもの教育に関する第一の、他に譲ることのできない義務と権利を持つ両親は、学校を選択する上の真の自由を持たなければならない。従って、国民の自由をかばい守るべき公権は「分配的正義」によって、両親が自分の子どものために、自分の良心に従って真に自由に学校を選びうるため、公の補助金が与えられるよう配慮しなければならない」(第2バチカン公会議『キリスト教的教育に関する宣言』n.6)。

 「親が自分の信仰に従って教育を選ぶ権利は、絶対に保証されなければなりません」(ヨハネ・パウロ2世使徒的勧告『家庭―愛といのちのきずな』n.40)。

 「親は、自分たちの確信に従って子どもを教育するために必要な学校やその他の手段を自由に選ぶ権利がある。公的権力は、親が不公正な負担を被ることなく、この権利を真に自由に行使できるように、公的な助成金の給付を保証しなければならない」(1983年10月22日ローマ聖座『家庭の権利に関する憲章』第5章b)。

(註2)国家の教育的使命は「補完性の原理」に従って

 「国家は、すべての国民がふさわしく文化の恵みに浴し、市民としての義務と権利を果たすために充分準備されるよう配慮しなければならない。そのため国家は、ふさわしい学校教育に関する子どもの権利を守り、教師の能力と研究水準を配慮し、生徒の健康に心を配り、学校活動を全般を推進しなければならない。その際、国家は補完性の原理を念頭に置き、国家によるあらゆる種類の学校の独占を排さなければならない」(『キリスト教的教育に関する宣言』n.6)。

 「両親は子どもの第一の主たる教育者であり、また同時にこの分野で基本的な権威を持っています。彼らは親だから教育者なのです。両親はその使命を他の人々や、教会や国家のような他の教育機関と分け合います。ただし、それはいつも補完性の原理の正しい適用に従って行わなければなりません。この原理の効力によって、両親の権利の優位性とその具体的能力によってしるしづけられた内在的で不可侵の限界を尊重しつつ、両親を援助することが正当であり、また同時に義務でもあります。従って、補完性の原理は、家庭の善に集中する両親の愛を助けるためです」(ヨハネ・パウロ2世『家庭への手紙』n.16)。

 

【次回は「家庭の教育的役割」について】


コメント欄を活用して、対話の機会にすることができればと願っています。
ただし、記事や本サイトの趣旨と関係のないコメントはご遠慮下さい。

改めて自己紹介させていただきます

Posted by 野村かつよし at 2006-11-16 13:18
前のボックス「ko1125ai」は閉鎖して下さいませ。
改めてこちらに経過を再録し、挨拶とさせて頂きます。

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自己紹介させて頂きます
投稿者 Katsuyoshi Nomura 投稿日時: 2006年11月14日 23時50分

横浜・山手教会の野村勝美(のむらかつよし)と申します。
64才で、聖歌隊で下手な歌を歌っています。
糸永司教様のカトリック新聞11月5日のメッセージに感銘を受け、こんなページを発信してしまいました。
http://www.nomusan.com/~essay/jubilus2006/11/061109.html

私が司教様の真意を曲解しているかも知れません。
「カトリック時報」を拝読しつつ、勉強したいと存じます。
私たちは今、水を求めてあえぎさまよう鹿です。泉を求めております。

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糸永司教様の、
「これをカトリックの立場、特にその社会教説の視点から論評して、物事の真の意味を考えていこうと思う。」
というお言葉に、強い期待を持ちます。信徒が聖職者に求めているものは、そういうことであると思います。


お手数、お掛け致します

Posted by 野村かつよし at 2006-11-16 13:18
山手教会の野村でございます。
私の勘違いで、ログイン名のところに「名前」が出て参りませんので、今後「Nomura」で接続させて頂きたく存じます。

野村さんへ

Posted by P.Itonaga at 2006-11-16 16:26
コメントをありがとう。
ご期待に添えるかどうか心配。でもお楽しみに。
公私立の問題についてのご意見、ごもっともです。心に留めておきます。

山谷えり子氏に関して

Posted by Morii Kazuhiro at 2006-11-16 14:09
教育関係の首相補佐官,山谷えり子氏は,心のともしび,聖母の騎士,カトリック新聞等,様々なメディアにも寄稿されている,存じませんが恐らく信者さんだと思います.彼女がこれまでにも,日の丸・君が代の義務化推進等に尽力されて来たことは大変残念なことに思っています.個人の思想信条は自由ですが,山谷氏には,カトリック者としての発言を厳に謹んでほしいと願っています.

山谷えり子氏に関して

Posted by P.Itonaga at 2006-11-16 16:22
コメントありがとう。
これからも、いろいろとご教示をよろしく。

山谷えり子氏に関して追伸

Posted by Morii Kazuhiro at 2006-11-16 16:46
山谷えり子氏が今年,靖国神社を参拝しているニュース映像を見ました.毎年参拝されているかどうか存じませんが,ウェブ百科事典のウィキペディアによると,『平和靖国議員連盟の幹事長として首相の靖国神社参拝を求める運動を推進している。 但し本人はカトリック信徒。』と記載されています.

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%B0%B7%E3%81%88%E3%82%8A%E5%AD%90

何度も申し上げますが,個人の思想信条を責めるつもりはありません.しかし,山谷氏がカトリック者として発言される機会の多いことを考えると,氏の行動は大変嘆かわしいものだと思います.

kmoriiさん

Posted by Anonymous User at 2006-11-17 08:01
重ねて、ご意見ありがとう。ただし、先のコメントも含めて、少し気になることがありますので、一言言い添えます。
カトリック信者は,①市民・国民の名において、②キリスト教的良心に従って、③自由に、政治に参加します。政治においてはつねに自由選択の幅がありますから、同じ信者でも政治的立場や行動には差異が出ます。ですから、お互いの政治的立場について議論はできますが、これを裁くことはできません。お互いの自由を守り、また、教会に分派や分裂を持ち込まないためです
失礼をお許しください。お元気で。

美しい国を作る愛国心とは何でしょうか

Posted by Morii Kazuhiro at 2006-11-21 20:22
C.チャップリンも,先頃来日したクリント・イーストウッドも,愛国心が高じて自国の尊厳や利益を守ろうとした戦争が,如何に自国民を傷つけたかを反省すべきと述べました.芸術家的な感性だと思います.教育基本法の改正案に示される愛国心が,靖国神社を崇敬することを,直接的にだけではなくて,教育を通じて間接的にも子供達に植え付けようとするものだとしたら,それは自国を誤った愛国心に導く恫喝的な道しるべになりうるものだと感じている日本人が多いからこそ,この法律の行方を憂慮している人が多いのではないでしょうかね.靖国を参拝する方々が,個人的な理念を抱かれることは自由でしょう.自由の国ですので.しかし,法律で決めて押しつけたりしてはいけないと思います.靖国に合祀されている信者さんが,訴えを起こしていますね.私たちにとって,神様はひとりだけ.死んで神様として祀られるなんて,亡くなった信者さんや,信者さんの御家族は,耐えられない苦しみを受けられているでしょう.そのような方々の為に祈り続けなくてはいけませんね.
余談ですが,教育基本法の論議に関し,趣旨にかなっていますよね.個人の批判もしていませんよね.

靖国の祭神は『神』か

Posted by Anonymous User at 2007-09-05 18:39
彦左衛門と申します。

 野村さんとおっしゃるかたが嘗てどこかで次のように言っておられました:
<キリスト教徒が靖国の祭神を拝むことの是非ですが、私は靖国の祭神をキリスト教でいう『神』とはまったく別なものと思っています。

彦:おっしゃるとおりです。このことについては彦、既に詳しく論じました。靖国神社は、『神』という言葉を戦死者の霊に当てはめていますが、その祭祀の実態を見れば、その神は、カトリックの神と並ぶようなものでないのは勿論、他の神社の、多かれ少なかれ神威を備えた崇拝、礼拝、帰依の対象たる祭神とも違っており、単に我々の鎮魂、慰霊、追悼の対象である、神威を持たない『霊』なのです。勿論、慰霊と同時に、顕彰の対象とされていますが、それは、その神威の故にではなく、生前の行為が国に殉じた立派なものと認識されているからです。

  そしてこの顕彰は慰霊、鎮魂、追悼の構成要素ともなっているのです。

  だからこの神社への参拝は、追悼、慰霊の行為であり、第一戒に反するものではありません。


 <何よりも教義がない。従って戒律がない。究極の「抽象」です。キリスト教と競合するものでないのです。

 彦:神道の神社は、教義や戒律を持たないものが殆どですから、この点では、靖国神社と他の神社を分けることはできません。しかし、上述のように、その『祭神』の性格にはっきりした違いがあります。この違いの故に、他の神威を備えた存在を祀る神社での礼拝、帰依、祈願は、第一戒に反する恐れがありますが、靖国にはそういう心配はないのです。

 <(勿論、(靖国の神がキリスト教の神と)競合すると考えるキリスト教徒がいてもいいのです。そう考えることは自由です。しかし他に、そう考えろと強いる権利はない、そう申し上げているのです)。

 彦:競合すると考える人に、そう考えるなと命じることはできませんが、その考えが誤っていることは、指摘する必要があります。
 特にそう考える人が、靖国参拝のキリスト者を、第一戒違反者として非難している場合においては、この必要が大です。

 これまで、平成のカトリック教会責任者が、公に靖国参拝を信徒に禁じたことは、ないようです。しかし岡田大司教は、どこかで、『好ましくない』とおっしゃっていたように思います。もしそうでしたら、どういう意味で好ましくないのか、彦左衛門による、また他の人による参拝肯定論と突き合わせて、丁寧にその理由を説明していただきたいと思います。
  多くのカトリック信徒は、靖国が、神と言う言葉を慰霊の対象たる戦死者に対して使っていることから早合点して、靖国参拝ではカトリックでの神と同じように神威、霊威に対する拝礼、帰依行為が行われていると誤解しているのです。

註記に感謝致します

Posted by 野村かつよし at 2006-11-29 09:19
(註1,2)としてご提示頂いた教会の教えを拝読致しました。
糸永司教様のお話しが「教会の教え」に沿っているだろうことは、カトリック新聞へのご投稿文を拝読したときに感じました。
「教会は従来から、教育の最初の、そして基本的な場は家庭にあり、そして子供を産んだ両親こそ教育の第一の責任者であると主張してきた。」
その根拠を知りたいと思っていました。

「公的助成」についても勉強になりました。

このような教会の教えを知りますと、カトリック教会の教えはきわめて「常識的」なもののように思います。安堵とともに、自信が湧きます。

正論2月号を見て

Posted by makoto kito at 2007-01-05 17:52
カトリック新聞の異見に以前から特定の人(元共同通信)の独善的な投稿ばかりが重用されたりしているのでいつの間にか随分と政治的に偏ったものだと心配しておりましたから、正論の記事を見てほっとしました。それがこのホームページにひかれた理由です。
今後も楽しみにしております。
それにしても、「個人の思想信条は自由ですが,山谷氏には,カトリック者としての発言を厳に謹んでほしいと願っています」とのある方のコメントを見つけ、これにはびっくりしました。これは、「個人の思想信条は自由」と言っているだけで実はそれを否定しているも同然です。どこかの新聞の社説に同じ書き方がよく出てきます。わたしが神父さまから聞きたいのは政治的言葉ではなく上からの言葉です。

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