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政教分離の原則について

by P.Itonaga last modified 2007-02-21 15:17

――政教分離の原則は、政治と宗教との本質的な分野の違いによるものである――

政教分離の問題はいろいろな意味で多くの人を悩ませてきたが、そのポイントは二つある。すなわち、わが国においては国家神道という国教化されていた神社神道を国家から分離する問題であり、多くの近代法治国家においては互いに自主独立であるがゆえに政治と教会を分離する問題である。政教分離を正しく理解するためこの二つを簡単に見てみたい。なお、主に参照したのは、三土修平著『靖国問題の原点』とカトリック教会の『現代世界憲章』である。

 1-わが国における政教分離の経緯

日本が受諾したボツタム宣言とこれを実行したGHQは、日本の軍国主義体制を解体して平和的な民主主義体制を作るため、思想的バックとなった国家神道を国家と神道に分離しようとした。これは1945年12月15日に発令された「神道指令」によって実行に移されたが、そのとき靖国神社はこの道を選ばず、その存続を図るため、翌1946年2月2日の改正宗教法人令によって自ら宗教法人となることを選択し、1951年4月3日の宗教法人法の成立によってこれが確定した。こうして靖国神社は、分離されないままの国家神道を宗教法人法による信教の自由という大義名分の元に温存することになった。このとき、戦没者の慰霊施設という公共性も宗教法人の中に封じ込めたから、建前として靖国神社は国家から分離された。

この靖国問題に対してわたしたちはどう対応すべきだろうか。答えは簡単だと思う。なぜなら、靖国問題は宗教法人化によって国家から分離され、わたしたちの「信教の自由」に何も強制することはなくなったからである。靖国神社が何を信じ、何を主張しようとも、すなわち国家神道も遊就館も、それは一宗教法人の宗旨であり主張でしかないのである。

2-政教分離原則の本質

 1) 多元社会においては、政教分離は国民の基本的人権を守る上でどうしても必要であるが、そのための根拠として、現代世界憲章は政治と教会(宗教)の使命の本質的な違いを指摘した上でこう述べる。「政治共同体と教会はそれぞれの分野において互いに自主独立である」(現代世界憲章76)。だから、政治は教会に介入しないし、教会も政治に介入しない。たとえば、憲法を決めるのは国民であって、教会ではない。従って、この原則を守っている限り、教会はいかなる場合にもその政治責任を問われることはない。ただ、次のような配慮は重要である。「キリスト信者個人または団体が、キリスト教的良心に基づいて一市民として行うことと、牧者と共に教会を代表して行うこととを明確に区別することは重要である」(現代世界憲章76)。

ただし、両者の使命には互いにオーバーラップする部分がある。すなわち、地上の秩序に関する限り教会は国法に従い、政治倫理に関する限り政治は教会の規制を受ける。政治介入と政治倫理批判とは同じことではない。

 2) 次に、現代世界憲章は政治と教会の相互協力に関して次のように述べる。「しかし両者は、名目こそ違え、同じ人々の個人的、社会的召命に奉仕する。両者が時と所の状況を考慮して互いに健全に協力しあうならば、この奉仕をすべての人の益のために、よりよく実行することができる。」(現代世界憲章76)。

 この教えは重要である。人間は霊肉併せ持つ一つの統一体であって、国民は物心両面の支援を必要とする。だから、政治共同体の支援と共に、教会(宗教)の精神的支援が必要である。ただ、わたしたちは政治と宗教の無定見な癒着を警戒しなければならない。世の救いのために宗教の力に頼らず、法律の制定や改正に頼ろうとする宗教者の傾向がわが国では強いからである。こうした反省に立って、互いの使命のよりよい達成のために、協力することを拒んではなるまい。  


コメント欄を活用して、対話の機会にすることができればと願っています。
ただし、記事や本サイトの趣旨と関係のないコメントはご遠慮下さい。

政教分離の原則について

Posted by 大田英夫 at 2007-03-24 19:48
「政治倫理に関する限り政治は教会の規制を受ける」についてさらにお教え下さい。
この世に於けることは、欧米はじめキリスト教文化を基盤とする国々と、キリスト教を容認するがそうではないない国々及びキリスト教を容認しない国々とでは相違するのではないでしょうか。わが国は明治初め以後キリスト教を容認はするが、「天皇を頂く文化」を持ち、しかも皇室は新憲法発布以来、政治介入も政治倫理批判をも一切なさいません。

ご質問に答えて

Posted by P.Itonaga at 2007-03-26 10:25
太田英夫さん、ご質問ありがとう。盛り沢山の内容を簡潔にまとめようとするのでつい舌足らずになったりするから、質問があればありがたいです。
さて、政治倫理に関する政治と教会の関係はこうです。人間の自由な行為はすべて倫理性を帯びています。良心に従って行動しなければならないからです。政治も、人間の行為である以上例外ではなく、倫理的な規制を受けます。まして政治がみんなのためであり共通善のためであるとすれば、それは最高のモラルが要求されるのです。
一方、教会は信仰・道徳について教える使命を持っています。そこには政治倫理も含まれます。その上、教会が教える倫理は理性と啓示に基づく人類普遍の倫理ですから、すべての人の良心形成に貢献します。もちろんカトリック教会を認めない人や反対する人もいるでしょうが、カトリック信者をはじめ、多くの善意の人や良心的な政治家が教会の政治倫理から力を受け取るに違いありません。だから、たとえば教皇様は、政治倫理(社会教説)については種々の形、とくに社会回勅や使徒的勧告、平和の日のメッセージ等で訴え続けているのです。わたしたちも協力したいですね。
なお、天皇は国民統合の象徴として、憲法に従って独特の政治的使命(国務)を果たしているのではないでしょうか。教会の立場とは違うと思います。

私見を申し上げます。

Posted by 大田英夫 at 2007-04-02 09:53
私は、日本は欧米のキリスト教文化を基盤とする文化と異なり「天皇を上に頂く」文化であると考えています。日本の政治は、政教各々独立し双方共に尊重し合って、政治倫理といえども、教会の規制(司牧者の介入・干渉)を受けることはあるまいと考えます。
吉田松陰(「講孟余話」)に代表される日本人の伝統的天皇観は次のようなものです。『(神々が)大八洲国や山川、草木、人民と天下の主なる皇祖・天照大神をお生みになった。それ以来、天皇が国土と山川、草木、人民を保護してきたのである。故に天下(国土、山川、草木、人民)から視れば人君(天皇)ほど尊き者はなし。人君から視れば、人民ほど貴き者はなし。』(「ひとすじの蛍光」吉田松陰人とことば(産経新聞関敦夫)より)
特に司牧者は、政治・経済・社会の分野に属することのために派遣されているのではないことを十分に銘記されるべきではないでしょうか。司教団が、個別的政治問題(これらの任務は信徒の召命の分野)についてまでも取り上げ、信徒の意見を聞くこともなく、反対あるいは抗議のメッセージ・声明等を出されることに多大の疑問を感じています。

ご意見に答える

Posted by P.Itonaga at 2007-04-02 19:31
天皇制について、教会として申し上げることはありません。どのような政体を選ぶかは国民が決めることであって教会ではないと思います。
政治介入の問題に関しては、おっしゃるとおりだと思います。憲法改正問題をはじめ、個々の法律や条文に関して、教会が具体的に意見を述べ、または指示をして信徒に押し付けることにはわたしも反対です。信徒は、①教会のメンバーとしてではなく、国民の名において、②キリスト者としての良心に従って、③自由に政治に参加すべきであって、特に教会の指示を仰ぐことはありません。
教会の使命は、社会的かつ政治的倫理に関して、原理原則を述べることであると思います。
なお、政治と教会の使命の区別と関係については、現教皇ベネディクト16世の回勅『神は愛』の26-29項「正義と愛」をお読みになるようお勧めします。

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