聖書のことば
Up one levelつながっていなさい
松田師の講義の成果?
2/17付けのブログにも書いた松田神父と過ごした貴重な?時間のお陰か、私の中で確かに何かが変わり始めている。
まずは、この記事を書こうと思ったことがそうだ。
そして、・・・・・5/14・日曜日の福音書の中の「つながっていなさい」「つながって」をずっと思い続けていたら、いろんなことが思い浮かんできた。つながっていたい人、離れたら困る人など、など。
回数として、一番多く思い浮かんだのが、売り上げに貢献してくれている「上得意さん」たちの顔、その次が家族・親族や友人。
なんと、神様や聖書のこと、神父さんや教会のことはずいぶん後ろのほうだった。
自分の悲しくも貧しい精神生活を思い知らされ、がっくり。がっくり。
でもこの手法、結構、気にいりました。続けていくうちに新たな自分に出会えそうな予感が・・・・。
それでやじぶろぐに、「聖書のことば」というカテゴリーを新しく作った次第。1週間ごとに書けたらよいのですが・・・。
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わたし
くどいほど出てきた「わたし」
今日、5月21日=復活節6主日(B年)のミサで朗読された福音書は、ヨハネ15.9-17。
そのなかで、「わたし」が何回出てきただろう。くどいほど「わたし」がでてきた。目と耳だけでは数え切れないくらい多かったので、パソコンの検索機能を使ったところ、18回と出た。これだけ多く出れば、心に残るはず。
・・・くどいは「9度言う」から出てきたという俗説を思い出し、くどいの倍はなんと言う?なんて・・・・
今週は、この「わたし」を思い出しながら、黙想してみようと思った。この記事の完成は、木曜日ごろ?かな。
毎朝、7時から9時まで病院の清掃を日課としているので、私にとって、その時が丁度都合のよい黙想の時間帯。
この1週間、『わたし』を黙想してみたところ、思い浮かんできたのは、20歳の頃。
アルバイト漬けの貧乏学生、暗い青春時代がよみがえった。頭でっかちに人生を論じ合った日々。
人間とは?愛とは?などと、崇高なことばで語り合いながら、全く実感の伴わなかったことが、気恥ずかしく思い起こされた。
----------今の私-----------
私を黙想すると、わたしというより、私につながるあなたや彼のことがすぐに気になるのはどうして?
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「あなたがた」を想う
聖霊降臨の主日に
聖霊降臨の主日の福音から抜粋した「あたたがた」が出てきた箇所
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
あなたがたに遣わそうとしている弁護者
あなたがたも、初めからわたしと一緒にいた
今、あなたがたには理解できない。
あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。
これから起こることをあなたがたに告げる
わたしのものを受けて、あなたがたに告げる
『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』
全部で7箇所
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたがた」のなかにはわたしも入っている?
イエスが弟子たちに言われたことばだけれども、わたしにたちにも語りかけているとしたら・・・・
わたしは、わたしたちという複数形の中に誰を加えるのだろう。←今週のテーマ
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パン五つと魚二匹を持っている少年
なぜ、少年なの?!
弟子の一人で、シモン・ベトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(ヨハネ6.8-9)
今週は、「少年」をテーマにしてみよう
それにしても、このカテゴリーについて書くのはずいぶん久しぶりだ。
今度の日曜日(7/29)の福音書を読んでみると、どうしても引っかかるところがある。それが上に引用したヨハネ6.8の「少年」のところ。
なぜ、いきなり少年が登場するのだろうか?
- 山の上、草深いところ、もちろん民家も店もない(はず)の場所に
- 少年は一人で来ていたの?それとも親か友達と一緒?
- 大勢の人たちは水も食料も持っていなかったのに、少年だけが持っていた?
- パン5個と魚二匹は、少年が一人で食べるにしては多すぎる
- 少年はもしかして行商人?
- 福音記者・ヨハネの脚色?
- もしそうなら、その意図は?・・・・・・・・・.etc
こういったいくつかの疑問が湧き起ってきた。
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パウロの回心と言えば
ヤジローの霊名も回心のパウロ
夕べのミサで読まれた福音書はマルコ16.15-18。
印象に残ったのは、次の言葉。
「信じる者には、次のようなしるしが伴う。彼らは、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉で語る。」(マルコ16.17)
郡山司教さんも、説教の中で回心して新しい人になるとか、新しい力とか、盛んに新しいを連発していた。
目から鱗が落ちるほどの体験をしたら、(目から鱗の語源はパウロだって知ってました?)
- 言葉では表せないほどの感動だろうから、
- 今までとは全く違う、新しく、力のある言葉で語るのだろう
パウロもキリストとの出会いでそうであったし、ヤジローもまた、ザビエルとの出会いで人生を一変させている。
そんじゃぁ~~~~、わたしの回心とは何か?
夕べの郡山司教さんの説教では、自分の欠点を数える回心ではなく、自分が頂いている恵みに気づいて感謝する回心こそが必要だとか・・・・。
そうねぇ。少しは、分かったような。。。。。
たとえば、、、、
- パソコンを取り扱えるという恵みに感謝して、
- この恵みをもっと周りの人に分かち与える、
- これも、立派な回心!のはじまり、かな???
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ヨゼフに学ぶ「鈍感力」
恐るべき、ヨゼフ様の「鈍感力」
寛容さと思い遣りを備えた人格の典型をヨゼフ様に見てみたい。
ヨゼフは、自分が知らない間に、婚約者マリアが妊娠してしまったことに気づく。
私なら発狂してしまうほどの大事件だ。
ところが、聖書によるとヨゼフ様の心はいたって冷静だ。
「マリアの夫ヨゼフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。」(マタイ1.19)
マタイ福音書は次のように続く。
「ヨセフがこのように考えていると、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子孫ヨセフよ、妻マリアを家に迎え入れるのを恐れるな。その胎内に宿されているものは聖霊によるのである。」(マタイ1.20)
こんな時によく眠れたもんだ、と疑問に思うのだが、
「ヨゼフは眠りから覚めると、主の使いに命じられたとおり、妻マリアを家に迎え入れた」(マタイ1.24)
恐るべし、ヨゼフ様の「鈍感力」。
あまりにも、あっさりと綺麗に、ヨセフ様の心と態度がまとめられている。
実際には、ヨゼフ様の心は、そう単純ではなかったはず。
ヨゼフ様の男心の揺れを想像して書こうとするのだが、何かが邪魔して、先に進まない。
主の使いが私にも働いているのだろうか?まさか!
家族に対する寛容さと思い遣り=「鈍感力」は、神にたいする絶対の信頼から生まれる!
祈りこそ、「鈍感力」涵養の要?
今日のところ、このように締めくくっておこう。
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善いサマリア人のたとえ
「善いサマリア人」のたとえから学ぶべき、新説に出会った。
まさに、目からウロコの新説だ。
国分教会の国原神父さんは、
「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」(ルカ10.35)
に光を当てている。
国原神父さんによると、
- 善いサマリア人はイエス
- 私たちは宿屋の主人
イエスは「費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と言っているのだから、わたし達は絶対に代償を受け損ねる心配はない。
必ず報われるということを信じて愛に励みなさい、と言うわけだ。
いつも代償を気にしながら働く自分には、この新説がピッタリだ。
これまで聞いていた教えは、
「わたしの隣人とはだれですか」
答えは・・・・助けを求めている人。
だから、善いサマリア人に倣って、助けを求めている人々に愛を行いなさい。
という勧めだったように思う。
善いサマリア人は代償なしどころか、費用持ち出しで愛の業を行っている。
真似よ!と言われても・・・ネ。
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主日の福音メッセージ?
「今日わたしと一緒に楽園にいる」とは・・・
「王であるキリストの主日」のメッセージは、天国に行く条件だと思っていた。
多分、A年に朗読されるマタイ福音書が印象に残っているからだろう。
A年のマタイ福音書では
-
・・・そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』(マタイ25.33~37)・・・
- C年のルカ福音書では・・・「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ32.42,43)
国原神父さんのメッセージによると、「今日」に光を当てて黙想するべきだとか。
楽園とは、いつ訪れるか分からない「来世」のことではなく、
今キリストと一緒であることらしい。
聖人とは、今を実践できた人々のようだ。
「ゆ」とりは温泉で見たが、「さ」とりは教会に!
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同感である。すべてに本気になれない自分がいる。
溝部司教様の講和に「人生の70%は毎日の出会いの連続にあり、
後の30%は一気に賭けてみる必要がある」とあります。
その30%は目に見えない将来であり、そこに飛び込まなければならない。
ヨぜフ様は飛び込んだ。「私のもとに来なさい」というキリストに出会いながら
30%の橋の前で逡巡している自分がある。この数日鈍感力を「本気力」に置き換え
考えていると自分には「鈍感力」は無いということになりました。
私が思う「鈍感力」の最たる人物と毎日暮らしていると「本音」で生きる彼女の常識は
私にとって「非常識」である。「鈍感力」なる人物は「非常識」だと橋のたもとで橋を
超えられない「常識」ある私は逡巡しています。
ヨゼフ様は、見えない将来に一気に賭け、飛び込んだ・・!!
お陰で、私のありきたりの発想も少し豊かになりました。有難う、アキラさん。
今後とも時々、アドバイス・コメントをお願いします。