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第2バチカン公会議の精神

by yaziro last modified 2006-01-23 12:29

それまでの公会議が、教えをめぐって異端であるかどうかを議論する会議であったのに対し、第二バチカン公会議は決定的に異なっていました。教皇はその中心的なテーマをアジョルナメント(今日化)と表現されたそうです。

第二バチカン公会議について、岡田武夫・現東京大司教は、著書の中で次のように述べています。

以下は、NICE(第1回福音推進全国会議)資料=「一人ひとりが大切にされるように」(1987年、岡田武夫・現東京大司教著) 34~37ページからの引用です。

第二バチカン公会議とは

 第二バチカン公会議はまず典礼刷新に取り組んだ。そこで典礼の国語化が行われた。ただし、それはラテン語の原文を翻訳したものである。あくまでもラテン語が規範であり、それをそれぞれの国で翻訳して使用することができるようになったということにすぎなかった。ラテン人のメンタリティで表現されたものを日本語に翻訳するということは色々な点で無理が生じやすい。色々な工夫が行われたが、依然として違和感は残っているのである。そこで、もはや翻訳に頼ることなく、独自の日本の典礼を創造する努力をすべきであるという主張が登場してきたわけである。

  第二バチカン公会議は「典礼憲章」で始まり「現代世界憲章」で終わった。このことは非常に意味深いことであると思われる。
 
  「典礼憲章」は教会内部のこと、信仰者だけの問題である。それに対して「世界憲章」は、すべての人々が共通に直面している問題を扱っている。その冒頭で「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもある。真に人間的な事柄で、キリストの弟子たちの心に反響を呼び起こさないものは一つもない」と述べられている。教会は内部のことばかりではなく人類共通の問題に深い関心を払う。その人がたとえ信者でなくとも、その人の喜びは信者の喜びであり、その人の苦しみは信者の苦しみなのだ。
 
  教会はまず典礼の刷新を行った。それは信者が典礼という恵みの源から豊かな力と光をうけとり、この世界の中でキリストの弟子としての証しをたてることができるように、との願いから出たことである。そこで公会議は現代世界の諸問題に言及し、キリストの弟子たちがこの間題にどのように取り組んだらよいかについての示唆と方向を与えようとしたのである。

  典礼から世界へ。この流れは、キリストの弟子たちがキリストを囲む生活から出ていって宣教したことと似ている。弟子たちはキリストから派遣されたように、信者はミサにおいて復活のキリストと出会い、キリストからそれぞれの場へ派遣されるのである。
 
  すでに述べたように、時空の隔たりを越えて、わたしたちがキリストに出合うことができるのは聖霊の働きによる。聖霊はいつでも、どこででも働いているはずである。しかしながら、聖書と教会の歴史を見れば、聖霊は信者の交わりの中でより効果的に働いている。聖霊降臨は祈る弟子たちの間で起こったことである。聖霊は初代教会の信者の集合ではっきりとその力をあらわした。また教会の歴史の中で、公会議のとき、聖霊はよくその役割を発揮している。したがって、信者の集まりと交わりにこそ聖霊の恵みが豊かに存在しているはずなのである。例えば典礼において、また祈りの集いや会議、その他の機会に。そのような時こそ生き生きとしたキリストとの出合いの体験の時でなければならない。キリスト者の集いは癒しと清め、照らしと励まし、喜びと希望の場であるはずである。

  しかし、現実には必ずしもそうはなっていない。そこにわたしたちの問題があり、そこからわたしたちの課題が生まれてくるのである。典礼を含めて、現在の教会の在り方が現代人(信者・未信者を問わず)の飢えと渇きによく応えてはいないのである。そこで、日本の教会としては、現代人の 生活と必要、現代社会の状況を分析し、いかにしたらよりよくキリストとの出会いの場を用意することができるのか、もう一度考え直してみようとしているのではないかと思う。

日本の教会が進んでいる方向

わたしたちの教会を見直してみると

 そのような観点からわたしたちの教会を見直してみると、どんなことがいえるだろうか。教会の制度・典礼・神学が形式と理論は立派でも中身が薄く、乏しくなってはいないであろうか。もし、そうであれば当然のこととして、そこには生き生きとしたキリストの現存の体験は得られないのである。例えば壮大なる神学の理論があっても、それを理解し、それを生きているのでなければ、その理論はその人の生き方にはなっていないから、人々へのインパクトも弱いということになる。たとえ難しい知識や理屈は知らなくともキリストの生き方を日々味わい生きていくならば、必ず多くの人に何かの影響を与えるのではないか。理論は正しいだろう。だから、そのとおりにすれば効果を発揮するのだろう。しかし、多くの人はその理論を理解する力もないし勉強する機会も持たないのである。考えてみれば、カトリック教会は概ね、フルコースのご馳走のようなもので、わたしたちは消化不良を起こしてしまったのである。

  第二バチカン公会議の前にはさまざまな民間信仰や信心が行われていた。それは余りにも壮大精密な神学や典礼・教会法にはついては行けない庶民の生み出した知恵であったのではないか。ところが公会議後、いわば蒸留水のような、純度は高いけれど味のない典礼や神学が新しい流れとなり、その結果、土と汗の薫りのする信心などの習慣が後退することになってしまった。
 
  公会議は「現代世界憲章」のように人々の現実の生活に深い関心をよせる司牧的な姿勢を示している。典礼や神学はまだその公会議の精神を充分には実現してはいないのではないか。典礼や神学、そして教会制度はまだ充分に「現代世界憲章」の理想に応えてはいないのである。難解で膨大な神学や聖書を消化して日本に適応することは並大抵なことではない。それをなおざりにしてはいけないが、それよりも、まず現代日本の現実を踏まえることが必要である。人々はどんな問題をもっているのか。どんな困難を感じているのか。その解決と克服のために、わたしたちは何ができるのか。そのような発想が必要である。
 
  わたしたちは時々いわゆる新宗教を現世利益の宗教として軽蔑しているが、現世利益もあながち悪いことではない。キリストご自身、病人を癒し、死人をよみがえらせ、悪霊を追い出きれたのである。ただし、それは神の国の到来のしるしという意味をもっていたのである。それゆえ現代の教会も、現実の人々の必要に応えながら、神の国の到来のしるしとなるような奉仕につとめるならば、キリストの使命を行っていると言えるのである。













   
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