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父の家に立ち返る

作成者 yaziro最終変更日時 2006年01月23日 23時15分 Hiroaki Nakano

今年のクリスマスから始まる大聖年を前にして、全世界の教会は教皇様の呼びかけにこたえて御父の年を過ごしています。これは具体的には改心して父の家に戻ることを意味しています。

 「父の家」、それは教会、さらに「天国」を指しています。イエスは弟子に言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。(中略)行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来てあなたがたをわたしのもとに迎える」と(ヨハネ14・2)。イエスを通って父の家に戻るために今回は「回心の秘跡」について考えてみましょう。

罪の意識と回心の必要性

 「自分に罪がないというなら、自らを欺いており、真理は私たちのうちにありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めて下さいます。罪を犯したことがないというなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」(ヨハネの手紙一・8~10)。
 イエスが殺された原因は自分を正しい者と自負し、律法を守らない人たちを見下していた人たちを攻撃したからでした。「悔い改めて福音を信じなさい」とのイエスの呼びかけは福音を受け入れるためには回心が絶対的に必要であることを示しています。
信仰と回心は表裏一体をなしています。

呼び名について

 この秘跡のことを先程は「回心の秘跡」と呼びましたが、他にもいろんな呼び方がされています。悔悛の秘跡、告解の秘跡、ゆるしの秘跡などです。それはこの秘跡が一口には言い表せない内容を包含しているからです。これからこの秘跡が効果的に行われるために必要不可欠な三つの要素(悔悛、告白、償い)について考えてみましょう。

悔悛

 ローマ公教要理は悔悛を次のように説明しています。「心の底から神に立ち返り、犯した罪を心から忌み嫌い、同時に神の御慈悲によって罪のゆるしを得ようとの希望のもとに我々の悪癖や腐敗した生活態度を改めることを固く決心することである。この悔悛には、不安や苦悩または情(パッシオ)と呼ばれる苦しみや悲しみが伴う。そのため教父たちのある者は悔悛をこのような霊魂の苦悩であるとしている」(ローマ公教要理、秘跡の部130頁)。
 放蕩息子のたとえ話では次男の言葉、「父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、また、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい』と」(ルカ15・18)。聖ペトロの場合、イエスを三度知らないと否んだ後の涙が記されています。「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは『今日、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないというだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして、外に出て、激しく泣いた」(ルカ22・61)。イエスを売り渡したことを後悔して自殺したユダの態度とは異なります。
 私たちの罪をすでにご存知の父なる神は私たちにこの悔悛を求められるのです。

告解

 悔悛の気持ちが起こったら次は司祭にそれを告白、あるいは告解します。この部分だけを取り上げて省略的にこのように呼ばれるようになっています。これは復活したキリストが弟子たちに与えた権能にその根拠があります。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければそのまま残る」(ヨハネ20・23)。司祭はキリストから使徒たち(現在の司教団)を通して付与された奉仕の権能を行使するのです。「改心する罪人は、謙遜と自己卑下の精神を持って司祭の足もとにひざまずく。それはこのように自己卑下することによって、彼が嘆いているすべての罪の源であり、原理である高慢を根から引き抜くべきことを容易に認めさせるためであり、また、他方、彼に対する合法的な裁判者である司祭の中に主キリストご自身とその権能をあがめさせるためである。なぜなら、司祭は他の秘跡におけると同様に、告白の秘跡の授与においてもキリストの任を果たしているからである」(ローマ公教要理、秘跡の部137頁)。

償い

 罪の告白の後司祭は告白者に償いを言い渡します。これは罪のゆるしが完成するために必要な要素です。放蕩息子の父は次男に償いを科さなかったし、復活したキリストも自分を裏切った弟子たちに償いを求めませんでした。つまり神に対する罪はキリストの十字架での死によるあがないの業で十分なのです。
 然し、殺人や中傷や盗みなどの罪は自分にもまた他人にも傷を残します。この罪によって負った傷を癒すのが償いの業です。この償いを果たして初めてゆるしが完成します。それは丁度、がん細胞を摘出した後も手術の傷口が癒えるのに時間がかかるのと似ています。
 ところで、償いには次の三つの業があります。祈り、断食(犠牲)、貧しい人への施しです。罪の重さ、つまり自分や他者の及ぼした害の大きさによって償いの種類と量が違ってきます。あるお酒の席で、共同回心式を済ませた信者が司祭から言い渡された償いをいろんな人に尋ねたところ、みんな「めでたし」三回だったのに自分だけ十回と言われたといって憤慨していました。償いはその犯した罪に比例している、ということをその人は知らなかったのでしょう。

聖年の免償

 教会は伝統的に聖年という特別な年に教皇の権限によって免償が与えられるという習慣があります。これは先に述べた罪のゆるしを受けた後果たすべき有限の罰(償い)を免除する、という恵みのことです。「聖年の免償を得るための規定」の全文は「教皇ヨハネ・パウロ二世 受肉の神秘二千年、大聖年公布の大勅書」(カトリック中央協議会発行)を参照して下さい。

ゆるしの秘跡

 日本の教会はこの秘跡を「ゆるしの秘跡」と呼んでいます。それはこれまで、この秘跡の名称(悔悛とか告解)が、罪や、罰や、地獄などのように、この秘跡の暗いイメージを過度に与えていた点を改善し、これまであまり強調されてこなかった、神のゆるしを前面に出した名称になっています。しかし、だからといってこれまで見てきたように、三つの要素が無くなった訳ではありません。すべてを言い表す上手い日本語が見つからないのも事実でしょう。

和解の秘跡

 これに対して、西欧語では公会議後「リコンシリエーション」という語を使っています。それは「和解」という意味です。罪は神と人間の絆を、また人間同士の絆を裂く、あるいは弱める性質のものだから、そのよりを戻す、という意味です。神と人間では父と子の関係を、人間ではけんか別れしている者同士が仲直りし、兄弟として生きる関係とでもいえるでしょう。

敵をも愛せよ

 大聖年を目前にして、せっかく教皇様が悔い改めの年を宣言しているのにユーゴでは戦争が続いています。「敵をも愛せよ」(ルカ6・27参照)というイエスの命令を実行すれば直ぐにでも平和は訪れるのにそれができない人間の愚かさを露呈しています。自己犠牲を伴うこの「敵をも愛する」精神を身につけたいものです。













   
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