年間第7主日
2007年2月18日(C年)-わたしの無神経さと神の慈悲深さ-
年間第7主日(C年)ルカ6.27~38
今の日本がおかれている教育現場は、「平和教育」「人命尊重教育」の場を強調しているようですが、どこかいつも詰めが甘いというか、偏りすぎというか、すっきりとしない気分です。
最近ますます厳しい現実となっているのは、公的な公園で親子のキャッチボールができなくなったことです。こぼれたボールが誰かに当たると危ないからだそうです。このようなことをいうのであれば、歩くことさえ危ない時代です。子どもが遊び戯れる場が年々狭められていることを考えれば、平和とか人命尊重とかを謳いあげたところで、それらが「自然に身につく」教育が提供できるのでしょうか。
人は、五感を満足がいくほどに使っていろんなことを会得していきます。平和を、命の尊さを実感できるのは、五感を使ってどれだけ痛みを感じ、喜びを体験したかにかかってきます。これがすべてとは言いませんが、大きな影響力があります。
今日の福音には「敵」「裁き(人を罪に定める)」「悪口を言う」「頬を打つ」と、イエスさまの言葉にはマイナスな表現が多く出てきます。これは同時に、人間社会の現実を言い表していることでもあります。つまり、わたしたちは罪ある存在であるということです。したがって、他者を思うより自分の「したいこと」が優先するのです。「敵視された、裁かれた、悪口を言われた、頬を打たれた」時の自分の肉体的な痛み、心の痛み、荒みを忘れて、自分の意のままに動いてしまう無神経さがあります。これがわたしたちの現実の姿です。人の悲しさです。
五感を通してわたしたちの中にはいるものに悪いものはありません(マルコ7章14節以降参照)。たくさんの情報、知識、人の表情から得る感性の豊かさが、本当はその人にとってプラスに作用するものです。しかし、所詮は相対的な、不完全な人のすること。どんな施策を練ったとしても、詰めの甘さと偏りがあるのは否めません。したがって、イエスさまは「あわれみの神」に生きる根拠を置きなさいと言われます。
一人ひとりがそのような生き方を心底願うならば、楽しい、平和な社会が実現すること間違いなしです。わが身の保全のみを考える道から、他者の保全をも感じる「わたし」に変化していくことでしょう。
「あなたがたの父が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深いものとなりなさい」(36節)。
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