受難の主日・枝の主日
2007年4月1日(C年)-悪意に応えるイエスさまの愛-
受難の主日・枝の主日(C年)ルカ23.1~49
事件を起こし、被告人になった人が、裁判で「無罪」になるケースがいくつかありました。特に身近なところでは、鹿児島県志布志市の選挙違反事件、佐賀県武雄市の女性3人の遺体が見つかった連続殺人事件。裁判長は、検察側の強引で非道な捜査と、客観的な証拠が皆無、として検察側のずさんな捜査を批判しています。また、長時間にわたる取調べの違法性も指摘しています。いずれの場合も、検察側は上告を断念しています。その結果「無罪」が確定しました。
今日は主の受難の主日です。いよいよ聖週間に入ります。イエスさまがなさろうとしている救いの最後の「仕上げ」のときに入ります。その場所はエルサレムです。人々はしゅろの枝をもってイエスさまを大歓迎します。同時にそれはイエスさまの受難の始まりをも意味していました。
福音書には「受難物語」が記されています。今日はルカの福音書が紹介されています。この中で注目したいことは、ピラトの前に引き出されたイエスさまに向かって、当時の最高権威を持っていたピラトが、「いったい、この人がどんな悪事を行ったというのか。わたしはこの人に、死に値する罪は何も認められなかった。だから、わたしは、この人を懲らしめたうえで釈放することにする」(22節)という言葉です。いわゆる裁判長は「無罪」を宣言したのです。しかし、国民の猛烈な反対を受け、彼らの思い通りにさせてしまいました。
証拠不十分だったのでしょうか、一度は無罪を宣言したピラトは、違法判決と知りながらも国民の意見に任せました。マタイはこの時のピラトの心境を伝えるために「水を持ってこさせ、群衆の前で手を洗い、この人の血について、わたしには責任がない」と表現しております(マタイ27章24節)。これが人間の現実でしょうか。
こうした状況の中で光るのは、イエスさまの人々に対する愛情です。不法、不当な扱いを受けても、人々に対するイエスさまの配慮は衰えません。ルカはこのことを強調するために、「エルサレムの娘たち」と「犯罪人の回心」の話を伝えます。自分にとって不利な状況は、救いのわざを仕上げるためには何の邪魔にもなりません。裏切りにも悪に満ちた態度にもやさしさと愛情をもってこたえられます。ここに大きなわざを達成する原動力があります。それは表に出てきません。イエスさまには安らぎと確信がありました。それが「父」のみ旨であるということに・・・。
無罪を受けた冒頭の方々も平安な心で生き抜かれることを願って・・・。
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