主の昇天
2007年5月20日(C年)-関心事-
主の昇天(C年)ルカ24.46~53
連日、考えられない事件が続きます。
「血は水より濃い」といいますが、今やこの言葉も死語になったのでしょうか。自分の母親を殺害し、のこぎりで首や腕を切断し、しかもバッグに詰めて警察署に持参するなんて、・・・・・。
どこからこのように日本社会は、日本人は狂い始めたのでしょうか。おおかたの人々は普通に暮らしているのですが、その中の一部の人が、それも、誰もが想像だにしない出来事が発生しますと、すべてがおかしくなったと考えてしまいがちになります。これも危険な発想です。
人間関係がそれぞれの利害だけでつながっているのであれば、破綻が来るのは目に見えています。形勢が変われば立場が逆転するのは必至だからです。親子関係はどのようなものであったのかわかりませんが、確かなことは、事件発生まではともに支えあい、世話になっていた血を分け合った親子であるということです。自分の気に合わないということでその仲が壊れるほどに、その関係は希薄だったのでしょうか。第三者が入り込む余地はありませんが、さびしいことです。
自分の目の前から誰かがいなくなる、それも、自分にとって大事な方であればあるだけ、悲しみ、さびしさは大きくなります。仮に、意識のうえで大事な人と思っていなくても、17歳の少年にとっては母親がいなくなったのです。本心ではどこか悲しいのではないかな、・・・と思ってしまいます。
今日は主の昇天の祝日です。イエスさまは弟子たちの前から姿をかくします。それまではいつも弟子たちとともにいて、支えて、励まし続けてきました。これからは肉眼でイエスさまを見、肌で感じることができなくなります。いつも弟子たちは受身でした。したがって、今日は弟子たちに生き方の転換を求めます。「あなたたちは証人である」(48節)からです。弟子たちのもろさをよくご存知であったイエスさまは、「わたしの父が約束されたものをあなたたちに送る」(49節)から「すべての民に宣べ伝え」なさい、といわれます。その方のおかげで転換ができるのです。
イエスさまがいなくても「非常な喜びをもって」神をほめたたえることができました。そこには自己中心的な弟子の姿はなく、平安でした。自分の関心事ではなく、イエスさまの関心事に自分を開いていけたのです。
わたしたちの命はまずは他者に開かれています。そして、その命は輝きを放ち、自分に戻ってきます。そこに人としての成長があります。信仰者としての成熟があります。
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