年間第21主日
2007年8月26日(C年)-人の手のぬくもり-
年間第21主日(C年)ルカ13.22~30
昭和20年代後半、わたしの家族は長屋暮らしをしていました。ビンセンシオ・ア・パウロ会のお世話でした。今思いますに、狭い敷地に8世帯の家族がまさに同居している状態でした。夫婦喧嘩の声も聞こえますし、兄弟喧嘩も日常茶飯事でした。それでも、居心地のいい場所でした。ひとつに、全家族がカトリック信者の家庭であったことでしょうか。また、同年代の仲間がいたことでしょうか。石畳の坂道を挟んで大浦教会が隣にあったことでしょうか。
わたしが小学校2年生になったとき、初めてカトリック教会の聖堂に入りました。それまではお寺のお堂でした。子どもは広いところに入ると走りたがります。お堂ではそうでした。聖堂にはそうするような雰囲気がなかったことを記憶しています。
その時代は誰もが貧しく、生活にゆとりがある人は、少なくともわたしの長屋ではいなかったと思います。しかし、将来に向かっての希望はありました。隣人との交わりには豊かなものがあったのです。味噌、醤油、砂糖等の借り貸しは日常のごとく行われていました。お互いがそれぞれの自分の立場がわかり、他者の立場もわかっていたのです。借りたら返すのが当たり前ですが、あの時代は返していたのかな?つまり、周りの人々に手をさしのべることがごく普通に行われていました。人としての温かさを感じますし、人間らしい感性が日常に育っていきました。
こうした日常の行動は、イエスさまを感じ、受け止めるために大切なことであると思います。今日の福音はまさにこのことを大事にしましょう、と呼びかけているように思います。神の国に入るのに「狭い戸口から入るように」しなさい、といわれるイエスさまは、ご自分が普段からお話くださることに耳を傾け、隣人に手をかすことの中に「狭い戸口」があるのです、と招かれます。
これはまさにマタイ25章31節以降にきされている「最後の審判」の内容に呼応します。近代はあまりにも利己主義が蔓延していないでしょうか。プライバシーを大事にすることは利己主義になれ、ということではありません。また、他者に干渉されることを極端に嫌がる人も多くなりました。干渉ではなく、「手を貸して」くれているのだと感じられるような人になりたいですね。そのためには、自分の限界を知って謙虚になり、他者の必要性に気づいて手を貸してあげるのです。
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