復活節第3主日(A年)
2008年4月6日(A年)-新しい生きる尺度-
復活節第3主日(A年)(ルカ24.13~35)
人は嬉しいとき、悲しいとき、疲れたとき、わくわくしているとき、生き生きしているとき、それぞれにあった顔の表情をします。「目は口ほどにものを言う」といいますが、「顔は口ほどにものを言う」とも言えるほどに、「わたし」の気持ち、心身の状態を表現している場合が多いようです。それが無意識のうちに出ているので厄介なときがあります。
一番辛い体験をしたエルサレムを脱出し、エマオに向かう二人の弟子にも、憔悴しきった表情がその顔に出ています。イエスさまから声をかけられた二人は「悲しげなようすで(暗い顔をして)立ちどまった」(17節)のです。ただ単にふたりだけの気持ちではなく、全部の弟子たちの気持ちを代表した面持ちでした。
弟子たちの気持ちは、イエスさまに「裏切られた」と感じていたのではないでしょうか。その真実は逆なのですが、・・・・・。しかし、人間側から見ますとそう感じたくもなります。だって、彼らはその人生をイエスさまに賭けてきたからです。したがって、彼らはエルサレムを捨て、ふるさとのエマオへと帰っていたのです。
他の弟子たちを含め、彼らの関心事は「自分のこと」だけです。石橋の建立には必ず要石があると聞きます。その一つをはずすとすべてが崩壊してしまうとか。同じように、「要石」であるイエスさまを亡くした今、弟子たちの群れは散り散りになっていったのでした。ますます「引きこもり」になっていきます。あれだけイエスさまから直接に話を聞き、奇跡を目の当たりにしながらも、終始人間的な物差しかもつことのできなかった弟子たちの成れの果てです。
別な表現をすれば、あまりにも自己「こだわり」が強く、どんなおいしいものを目の前に出されても見向きもしない、駄々をこねる人のようです。見向こうにもその力がないのです。ひたすら自分の内側に向いて、外に背を向けているからです。自分の外側に明るい希望が待っているよ、といって振り向くことを可能にしてくれたのがイエスさまご自身なのです。苦しみと死が最後ではないことを見せてくれたのです。
そのために、「パンを裂く」仕草を(立ち返りの原点)二人の弟子に見せます。以前と違った人間の常識を超えた新たな判断基準が同時に付与されたのです。元気いっぱいになってエルサレムへと引き返します。彼らにとって新しい道のりの始まりでした。
主の復活がある以上、わたしたちも落ち込みそうなとき、パンを裂く(ミサと祈り)式に戻ってみましょう。必ずや元気をいただきます。
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