三位一体(A年)
2008年5月18日(A年)-神のいつくしみ深さ-
三位一体(A年)(ヨハネ3.16~18)
大いなる期待をいだいて出発した今回の巡礼でしたが、ついに山の全貌を確認することなく下山してきたシナイ山でした。それでも、山頂に立ったときは、さすがに感動でした。緑がまったくない山肌ながらも、達成感を覚え、すがすがしい気分でした。
このような環境の中で、神はご自分をモーセに現されました。そのさきがけとなった出来事が「柴の間に燃え上がっている炎」(出エジプト3章2節)の中から召されたことです。シナイの荒れ野に到着したイスラエルの人々は、シナイの山に向かって宿営テントを張りました。「主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられた」(出エジプト19章20節)とありますので、ここまでモーセも来たのか、とその苦労を体感できたことは大きいものでした。学者によりますと、シナイ山はもっと北側に位置する山であるとの説もありますが、・・・。
イスラエルの民に示された神は、詩編145にある「神は恵みとあわれみに満ち、怒るにおそく、いつくしみ深い」(8節)神でした。民の神への背信行為があっても、モーセは怒りますが、神はそうではなく、無限のやさしさを示されます。人間の常識をはるかに超えた姿です。そこに神の神秘があります。神だけの秘密を少しずつ事あるときに開示なさいます。
三位一体の神の姿も、超常識の世界です。したがって、常識の世界では説明できないですが、その方の働きを感じることはできます。モーセは典型的な体験者の一人ということができます。神への畏敬の念を持ちつつも、それが故に、わたしたちの日常に介入しようとされる神を、その後の民は拒否続けます。
一方で、神はそれに関係なく、人間への愛に駆られ、神の「何たるか」(三位一体)を示されます。わたしたち人間のエゴイズム以上に、神のわたしたちへの関心は、はるかに高いのです。ここに神の真の姿があります。現実を眺めてもいえます。わたしたちが仮に悪いことをしても、神は「黙して語らず」を通します。何も文句を言うわけではありません。このことに人間は関心を示しませんが、逆に、人が何かして欲しいときの神の沈黙には文句を言います。かなりの身勝手さです。
父と子と聖霊は等しく、そして、ひたすらに人の幸せを願っています。人が「神に似せて創られている」からです。人を仲間はずれにしたくないのです。だからこそ、独り子を遣わし、聖霊を派遣してくださいました。
「神はおん子をこの世にお遣わしになった。この世を裁くためではなく、おん子によって、この世が救われるようになるためである」(17節)。
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