年間第11主日(A年)
2008年6月15日(A年)-あわれみ-
年間第11主日(A年)(マタイ9.36~10.8)
「携帯は生活の一部」。先日、東京秋葉原の歩行者天国道で、無差別殺人事件を引き起こした犯人、加藤智大容疑者(25歳)の供述です。事件の背景にはいろんなことが考えられるでしょうが、彼個人の問題だけではないのではないかと思います。
便利さと高所得・高学歴等を求め続けてきた結果、気づかないうちに、その裏で傷つき倒れそうになっている人を無視し、その現象を容認してきた日本社会の歪がありはしないでしょうか。だからといって、何をしてもいいということではありません。
インドの元駐日大使が言っています。「わたしが日本にいたときには考えられなかったこと」「訪問中の外国要人が犠牲になっていないかとまず気になった」と。大使時代に自国の要人たちが来ると、パソコンや電化製品を買いたいので秋葉原に案内して欲しいとよく頼まれ、案内していた経験があるからだそうです。
表に出てきた現象は、見えないところで何か起こっていることが見える僅かな「窓」です。でも、悲惨な事件に変わりはありません。
よく「子どもの叫び」「サイン」を見落とさないように、といいます。子どもはうまく表現できないからです。最近は子どもだけでなく、大人もうまく自分の気持ちを伝えることができない人が増えています。事件を起こした人だけの問題ではなく、日本人としての問題が横たわっているような気がしてなりません。
イエスさまは、外国の支配下にあった当時の人々を見て嘆かれます。「多くの人々が牧者のない羊の群れのように疲れ果て、倒れているのを見て、哀れに思い、・・・」(36節)弟子たちに話されます。当時の人々が生活の混乱の中で、耐えている姿がにじみ出ていたからです。声に出てこない人々の叫び(サイン)でした。さらに、長い間待ち続けているメシアへの絶望感を、イエスさまは人々の中に読み取っていたのかもしれません。
イエスさまの生涯の出発の原点は、その誕生にあります。「普通の人」以下の生活で始まりました。したがって、そのような人に対するイエスさまの思いは「哀れみ」でした。上にある人が下にいる人に示す「憐憫」ではなく、彼らと共感できたのです。イエスさまの言動の出発点はここにあります。弟子たちに対しても同じです。
イエスさまを伝えるのに資格は要りません。「わたし」の生き様を見せればいいのです。誰にでもできることです。言動の奥に「哀れみ」があることを願いつつ、・・・・・。
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