年間第17主日(A年)
2008年7月27日(A年)-内からの叫び-
年間第17主日(A年)(マタイ13.44~52)
無差別殺人事件、中学生による殺傷事件等、ここ数日悲惨な事件が続きます。教育学者、犯罪研究者によりますと、事前に何かの兆候、叫び、しるしがあったのではないか、と指摘されます。何かいつもこのような事件が起こるたびに、同じようなコメントがなされるような気がします。事件の直前の話より、もっとその前に何かがあったのではないでしょうか。というより、その「犯罪者」の生きてきた歴史、人との出会い、成長過程に起因しているものがありはしないか、と感じます。
人は意識する、しないに関わらず、絶えず何かを希求しています。そして、そこからある種の力をいただいています。その中身を明確にできる人、できない人がいます。だからといって、その人の優劣が決まるわけではありません。別の言い方をすれば、何かに飢えているのです。完璧に満足している人はいないでしょう。その何かが何なのかすらわからないでいるのです。冒頭に記した「犯罪者」も何かを訴えたかったのかもしれませんが、その方法論にはいささか疑問が残ります。
一方で、世の中には、善意な人、献身的に奉仕をする人々がたくさんいます。秋葉原事件の後、「歩行者天国」を再開したい一心で、ボランティア活動を始めた人がいます。以前の楽しい町並み、雰囲気を取り戻したい心の表れです。そこにはいつも「希望」をもって突き進む姿があります。こうした人々は目的をもって動いているように見えますが、その奥では、満たされないものがあるからだともいえます。
つまり、今日の福音に出てくる畑を買う人、真珠を見つけた人も、何かを求めて動き出していますが、初めから具体的に「これを」といって動いているわけではありません。その人にとって「これだ」という絶対的なものに突き当たったとき、満足するのです。
天の国のたとえ話しであることを思えば、「これ」は目の前にいる「イエス・キリスト」であるといえます。善意溢れる活動を一生懸命している人にとっても、満足できること、方に出会えないでいるのです。周囲の方からすれば、これだけの人が、と思われるその方が、ある日突然に「犯罪者」に取って代わることがあります。「信じられない」ということばが出てくるのです。
神に出会うことは、めぐみです。しかし、そのきっかけを提供するのは神(イエスさま)を信じているわたしたちです。めぐみをめぐみとして感じ、意識できたときに、その人にとって神との出会いが実現したといえるのでしょう。
願わくは、そのような奉仕ができればこの上ないな、と感じます。
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