年間第18主日(A年)
2008年8月3日(A年)-なじむとは?-
年間第18主日(A年)(マタイ14.13~21)
インターネットの便利さの陰で、悪徳商売、未成年者を巻き込む事件等が後を絶ちません。どうして、能力のある人が「悪いこと」をするために、その能力を使うのか、どうしてもわかりませんね。「いいこと」のために使えばたくさんの人が助かるのに、と思ってしまいます。いいことをするのに「慣れる」ということばはないのでしょうが、悪いことをするときは「慣れる」ということばが適用されます。
つまり、良心の呵責を感じなくなるということです。これくらいはいいだろう、ということが繰り返されて、「慣らされて」いくのです。「慣れる」ということばには、「なじむ」という意味があり、普通に言う「慣れっこ」になっていくのです。「悪さ」に対する感覚が鈍ってきます。と言いつつも、「なじむ」ということは、何になじむかによって、その結果内容の評価が違ってきます。
「◯◯界の常識」なる表現があります。その常識の根拠がどこにあるかは、「自分の都合」が大半なような気がします。常識がどうみてもおかしいと思われるようなことでも、「この世界で生きるためには」そうしなくてはいけないのです。今の日本には、このようなことが蔓延しているような気がしてなりません。これらが子どもたちの生きる価値観とも関係してきます。学校の授業にない、影響力の強い「教育現場」になっています。
自分のうちに価値観の根拠を置くとき、大抵誤りえます。やはり「信仰」にその源泉を置くことが望ましいのです。大学生の実習体験の場を、宗教を背景にしている幼稚園、保育園等の施設に求める大学が増えてきています。特に、人の命に関わる医療関係者、また教育関係者の中に見受けられます。
今日の福音の弟子たちは、自分たちが何もできないことを思い知らされます。「あなたたちであの人々に何か食べるものを与えなさい」(16節)というイエスさまのことばに、「五つのパンと二匹の魚しか、持ち合わせがありません」(17節)と答えます。大勢の群衆には足りません、ということばが含まれています。なす術がありません。
いつも大事なことは、自分でどうにかしようなどと考えないことです。できる人の力をいかに引き出すかを考えればいいのです。人は一人だけでその存在理由を見つけることは難しいです。他者との関わりの中で自分の行動が見え、存在価値も見えてきます。人の優劣にとらわれることなく、存在そのものが大事なのです。それによって元気をいただく人、勇気を与えることができる人が必ずいるのです。
イエスさまは「しょうがないな」とつぶやきながら(?)群衆に満足感を与えられるのです。できる人(イエスさま)の力が引き出されたのです。お互いの存在をこのように感じることができれば、世の中楽しく生きられるのでは、・・・・・。いいことに「なじむ」ことです。
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