年間第25主日(A年)
2008年9月21日(A年)-神のはかり-
年間第25主日(A年)(マタイ20.1~16)
時として発想の転換の必要性を迫られることがあります。長年親しんできた「発想」を変えることは勇気のいることです。しかし、いつも新しいものが入る余地を残しておくことは大切なことです。そのために、日頃から、たくさんの方との交流を持ち、体験の豊かさを維持することでしょう。そうでないと、人脈を逸することになりますし、自己の成長を妨げる結果を引き出してしまいます。
こうして養成される信念がその人の生き方に大きく影響してきます。自然環境、人的環境は、自ずとその周囲にいる人にとって文化的財産となります。その財産には絶対性はありませんが、生きるために、ある種の安心感と自信の源になるのも事実です。あくまでも自己のためには善ですが、他者に強制する「財産」ではありません。限界があるのです。用心しないと固定観念となり、自身の自由をせばめ、飛躍を止めてしまうことにもなりかねません。
今の日本社会でちらほら目にし、耳にすることの中に「戦後60余年の教育」の是非があります。その中でも「宗教教育」が云々されています。宗教教育というとき、「超越的な実在」としての神観念を先に考えるので宗教が面倒くさくなる、という方がいます。むしろ、宗教の本質は「感動」そのものであると確信している方がいます。次のようにおっしゃいます。「『ああ、阿弥陀さまのお慈悲は、このわたしにまで及んでいる』と感じることがある。この体験や感動が大事ですね。それをどう表すか。浄土思想は、阿弥陀とか無量寿とか、つまり、限りなきものと仮に名前をつけたが、他の名前でも構わない。だから体験が先で、名前が後。逆ではない。浄土も感動や宗教体験が先にある」と(「宗教の教科書12週」236頁)。
出エジプトの実体験は、イスラエルの民の大きな支えでした。初めは純粋な心で神に感謝し、大きな力を感じていたはずです。「聖なる神、正義の神」の存在は生きるための救いになっていかなくなったのでしょうか。自分たちの罪、堕落のせいで苦しい目にあっているのだと「思い込む」ようになっていきました。当時の指導者もそのような追い込み方を庶民にしていたようです。こうした人間の常識を超えたところに、神の真の「物差し」があるのです。今日の福音の雇い主のやり方がまさに神の姿であるとイエスさまはおっしゃいます。
自分が思い描いた神は、どこかおかしいのです。自己満足の生き方ではなく、他者からのメッセージの中にも満足できるものがあるのです。視点を変えた関わり、生き方をいつも大事にしたいものです。
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