年間第29主日(A年)
2008年10月19日(A年)-新しい頑固さ-
年間第29主日(A年)(マタイ22.15~21)
あるプロテスタント教会の牧師さんからよく聞かれることです。「カトリックさんは世界規模だからな。心配事はないでしょう」と。よく話を聞いてみますと、信者さんの数の多さ、それ故に財政上の安定、ネットワークの充実等、うらやましいです、というような内容でした。
世界的なレベルでいうとき、聖地への巡礼時に、カトリック教会の信者としてのつながりを感じることがあります。特に、ルルドでのミサは感動します。こちらは日本語でミサをしますが、われわれ以外にも諸外国の方が一緒に参加しております。初めてお会いするのに、声をかけ、あいさつが自然にできるのです。穏やかな自分になっていることをも感じます。
このようなときがあるから、巡礼は「恵みの時」なんですね。優しい心になれるとき、緊張感を感じるときがあって、人の営みは味あるものになっていきます。こう考えるとき、いつも誰かの「欠点」「あら探し」ばかりに明け暮れする人にとって、人生とは何なのでしょうか。何か言えるとしたら、「その方は自分ひとりの力で生きている」と思い込んでいるのではないか、ということです。「誰かに生かされている」という実感が持てないでいるのではないでしょうか。そうならないことをいつも祈りたいです。
少なくとも、イエスさま時代のファリザイ派の人々は、もしかして、そのような生き方、考え方をもっていたのかな、と感じてしまいます。今日の福音には「イエスのことばじりをとらえようとたくらんだ」(15節)とあります。彼らは、実に「巧妙な最高の質問」を投げかけたと自負していたのではないか、と思いますが、イエスさまは、それこそ彼らの「弱点」に気づいてもらうべく、すばらしい答えをします。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(21節)と。
この答えを聞いた彼らの反応は、「驚嘆した」のです。辞書には「ひどく感心すること」とあります。感服はしたかもしれませんが、安心はしていないのです。自らの策略の失敗を嘆いたのかもしれません。いわゆる「いたくショックを受けて嘆く」という意味も込められています。「イエスのもとを離れ去った」ということばにそれを感じます。イエスさまのことばと心配りが通じないのです。頑固なのはいいとしても、新しいものを受け入れて新たな頑固さを構築していくことに、その人の「らしさ」が養成されていきます。古いままで終わらせてはいけないのです。
わたしたちも、回答を見つけるために「みことば」を読むのではなく、より自分らしくなるためにみことばに親しみましょう。おのずと答えが出てきます。
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