ラテラン教会の献堂(A年)
2008年11月9日(A年)-ちょっとの間-
ラテラン教会の献堂(A年)(ヨハネ2.13~22)
先日、長崎の浦上天主堂に行く機会がありました。その帰り道、かつて浦上の丘に鳴り響いていたアンゼラスの鐘楼を、はじめてゆっくりと眺めました。もちろん、原爆で吹き飛んでしまった「残骸」です。そこには、長崎市が立てた案内板がありました。それによりますと、浦上教会は、信者さんが30年をかけて建立された手作りのレンガ教会であった、ということです。それが一瞬の原爆によって完全に破壊され、多数の犠牲者を出したとあります。戦争は、勝ったとしても、やはり心に傷を残します。双方にとって何もいいことはありません。分かっていても、いまだに発生するのは、何がそうさせるのでしょうか。
焼け落ちる前の浦上教会は、信者さんにとって安らぎの場であったことでしょう。大きな生きる力をいただく場でもありました。建物の大小に関係なく、すべての教会はそのような場となっています。
今日記念するラテラン大聖堂も同じです。カトリックをローマ帝国の宗教と定めたコンスタンチヌス皇帝により、320年ごろ建てられたといわれています。この時代に、それまで圧迫されていた信者さんの心が開放され、信仰の実りとしてたくさんの町に教会が建てられました。とりわけ、ラテラン教会の献堂式には、たくさんの信者さんが喜んで集まり、神の豊かな祝福を祈ったのでした。
このような祈りと祝福の場を「商いの家にするな」(16節)とイエスさまは言われ、商人たちを追い出されます。当時は、商いをしてその売り上げからいくらかの「場所占有代金」を払うと、自由に神殿の境内で商売ができたようです。現に、その形跡が発掘されているようです。
現代の日本人は、静かに過ごすことを忘れたかのような生き方をしているような気がします。道徳的に立派であるとか、品行方正であるとか、を言う前に、それが「あなたらしさ」なんですか?を自問自答する時を大事にしたいな、と思います。この私自身が一番問題にしていることのひとつです。「イエスさまらしさ」が発揮された箇所が、今日の福音です。聖堂の中にただ座るだけで、静けさの中に入り込みます。ちょっとの時間が過ぎ、何のために聖堂に座っていたかはっきりとしなくても、そこにいたことが、その後、大きな実りをもたらしてくれます。その「ちょっとの間」を繰り返すことです。
自分のことがわかれば、他人のことも見えてきます。心を広く、豊かにさせてくれます。慌てることなく、ゆったりとした気持ちに変えられていきます。自分以外の力が明らかに働いてくれています。「動」は大事。されど「静」も侮ってはいけないようです。
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