四旬節第2主日(B年)
2009年3月8日(B年)-人の思いを超えて-
四旬節第2主日(B年)(マルコ9.2~10)
「若い頃の体験があって今の自分があります」ということばを口にしたり、耳にしたりします。この場合、ほとんどがいい意味で使われています。
またもや、政治家の収賄事件が発覚しました。民主党の小沢代表の公設秘書が逮捕されました。事実はそのうち明らかにされていくのでしょうが、この種の「政治資金規正法」違反は、これまでも似たケースがありました。その度に、政治家の言い分は、「政治には金がかかる」でした。先日もある東京大学の名誉教授がおっしゃっていました。「政治に金のかからない仕組みを構築しない限り、この種の事件は後を絶たないでしょう」と。
多数の方(政治家)が同じような「体験」をしてきたにもかかわらず、やはり、その「体験」は他人のものだったのです。「今の自分に」は活かされていません。
人は、いいことは人前で公にしたい、悪いことは隠し通したいという気持ちを持つものです。しかし、悪いと思いつつ過ごす間に、少しずつ公になっていくものです。歴史が明らかにしてくれています。行動原理が、いつも「その人の思い」の域を超えていないからです。いわゆる、利己的であり、個人的過ぎます。公職についている人は、どこかで「自己犠牲」を求められます。自分の思いだけでは動くことができないのです。
「百年に一度の不況」だからこそ宗教(信仰心)に目覚める時でもあるのではないでしょうか。「人の思い」は千差万別です。損得勘定に走りがちです。その結果、刹那的な結論しか見出しません。堂々巡りの「負の連鎖」が拍車をかけてきます。
ペトロはイエスさまの最初の弟子の一人です。彼は人間のあらゆる面をそのまま出してくれる、ある意味で正直者です。また熱血漢です。「あなたはメシアです」と、イエスさまに信仰宣言した直後に、「サタンひきさがれ」と言われて、突き落とされますが、それでもめげないのです。自分の信念に確たるものを感じていたからでしょう。
今日の出来事の中でも、なんだかわからないのに、「わたくしどもがここにいるのはよいことです」と言ってしまいます。ペトロはたくさんの経験をしていきます。その経験が、個人の中で終わることなく、他者への奉仕のために活かされていくのです。その根拠になったのが、イエスさまに「ついていく」ことにありました。「これに聞け」ということばの中に、ペトロ自身の思いを超えた神の思いがあることに気づかされていくのです。
基本的に、人の経験はその人個人のものです。それを普遍化していく力は信仰心からしか出てこないのではないでしょうか。わからなくても「聞け」という一言に身を託したペトロの、その後の生き方に、刹那的でない結論が待っていました。ペトロの若いときの体験があって、その後のペトロがあったのです。
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