四旬節第4主日(B年)
2009年3月22日(B年)-愛、それは、・・・-
四旬節第4主日(B年)(ヨハネ3.14~21)
最近よく耳にすることばです。「日本人には宗教がない」というのです。日本人の多くの人は我が家に仏壇はあるが、それは身内の人が亡くなったときお寺に頼みやすいからだ、という仏教徒の方がいらっしゃったそうです。実際にわたしの知り合いにもそのような方はいます。しかし、すべての方がそうだとは思いません。熱心な方にしてみますと、「なんと無礼な」と、お叱りを受けそうです。
宗教は、人間がその力ではどうしようもない出来事に直面したときにこそ、その存在のありがたさを伝えてくれます。自分の力で求めよとしなくても、そっと寄ってきてくれるのです。まさに、「ありがたいこと」なのです。
なぜ、ありがたいと思うのでしょうか。わたしがどんな生き方をしていようと、それとは関係なく近寄ってくれるからです。ここに神の愛があります。「愛」ということばは、日本人にはおもはゆくて、日常では使われにくいことばのようです。別の表現をすれば、「あなたといることで安心できる」というのが、その内容であるように思います。また、「大切にされている実感、相手にされている実感」があるのではないでしょうか。
今日の福音に登場するニコデモも、当時、イエスさまを非難の的にしていたファリサイ派に属していました。その彼に、イエスさまはご自分のメッセージの大事な内容を明かされます。しっかりと彼を受け止め、「相手」にされます。ニコデモは受け入れられているのです。その内容はといえば、「神が先にわたしたちを愛している」ということです。いつも、わたしたち人間は神から「大切にされている」のです。
「わたしの子どもは人見知りするんです」といって嘆いて(?)いる親御さんがいますが、これは誤りでしょう。現に、知らない人に容易についていくお子さんがいると、困ったものです、といってまた嘆きます。つまり、「人見知りする」ということは、子ども自身が、自分が安心できるかできないかの「判断」をしているのです。安心できれば、その子は生きる元気をいただくのです。ごく正常な発達段階であるといえます。子どもから安心してもらえるような存在になること、大切にされているということが伝わるような関わりになること、ここに愛の心の育ちがあります。
子どもは誰かに愛されているなと感じるとき、子どもの中にその意識がなくても、その人にしっかりと応えてくれます。神との関係の中で、神から先に愛されている実感があるかどうか、それによって「わたし」の生き方が変わります。「わたし」の生き方は、神への応えだからです。自分の今を「ありがたい」と思える人にとって、少なくとも「大切にされている」と感じる入り口にいることは確かではないでしょうか。
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私は、病気で、月に1回ぐらいしかミサに与ることが出来ません。
それで、主日の福音のお説教をインターネットで探しておりましたら、このブログに出会いました。
こういうブログを作ってくださると、私のような者には、大変助かります。ほんとうに有難うございます。
神さまが「相手にしてくださる」というお言葉が、印象に残りました。
私も、病気ばかりで、結婚もせず、修道生活にも入らず、働くことも出来ず、愛する父が死に、親友が死に、どんどん年を重ねてゆき、そして、唯一の支えであった教会へいくことさえめったに出来なくなっております。
でも、上手く申し上げられないのですが、この状態は恵みであると最近思うようになりました。まさに、神父様のおっしゃる、「神さまが相手にしてくださる」ということを、前よりも信じられるようになった気がするからでございます。
自分が自分であるためにしがみついていたもの、頼りにして来たものを、次々に取り去られて行きますことで、自分の霊魂が裸にされ、永遠のいのちということに気持ちを向けるようになりました。
今日の福音で、永遠の命という言葉が出て参りますね。
信仰宣言でも、「永遠の命を信じます」と、これまでの人生で、何百回、何千回唱えて来たことでございましょう!
でも、自分の信じていることの意味を、本当に考えたことはなかったように思っております。凄いことを信じているなあと改めて思います。
永遠って、神父様、どういうことなのでございましょうね?
長々と失礼致しました。
こういうブログを開いてくださっているYASU神父様に、心から感謝申し上げます。