受難の主日(B年)
2009年4月5日(B年)-同じ目線で-
受難の主日(B年)(マルコ14.1~15.47)
自然界は色とりどりの花が咲き誇っているこの時期に、受難節に入ります。イエスさまの受難を黙想し、それが今のわたしたちのためでもあったことを、だからこそ今の「わたし」の存在理由もそこにあることを、しっかりと感じたいと思います。その先には、「復活」という晴れ晴れとした事実が待っていることを思いつつ。
新学期が始まりますが、ある幼稚園に奉職していたとき、入園式での出来事です。園長あいさつで、子どもたちの前に出たわたしは、とっさに何を思っ たか(今でもどうしてそうしたのか、その理由に思い当たりません)、いきなり正座の姿勢をとり、話し始めたのです。子どもたちは椅子に座り、泣いている子 どもたちもいます。入園式の終了後、ある保護者の方がお出でになり、「何をなさるのかと思っていましたが、今日の園長先生の姿勢に感動しました」と、話し てくれました。「子どもたちと同じ目線になられたのですね」と。わたし個人は、その姿勢で落ち着けたのは確かです。それからというもの、幼稚園の入園式に は座るようにしました。
イエスさまご自身の生涯は、弱くて、ちっぽけな人間の目線に立たれた一生だったのではないでしょうか。その際立ったしるしが十字架上での死でし
た。その姿をみても、どこがすばらしいしるしなのか誰にもわかりません。ファリサイ派の人々、司祭長、長老たちにとっては、イエスさまの死は勝利のしるし
であったでしょう。百人隊長が言うように「まことにこの人は神の子であった」というしるしはどこにも見当たりません。
しかし、イエスさまにはご自分をあざける彼らをも抱きこんでいく「愛の心」があったのです。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは自分らが何をしているのか、わからないのです」(ルカ23章34節)と祈られるのです。
受難物語は、かつての力強いイエスさまの姿をまったく覆い隠します。病から人々を解放し、人々に生きる力を与えていた業そのものは陰を潜め、ご自 身の生き様そのものは惨めな結果に終わってしまうかのようです。そうした惨めさの中にこそ、何にも屈しない「力強さ」が秘められていることにマルコは注目 します。
あくまでも「人間の目線」にこだわり続けられたイエスさまの「頑固さ(?)」がある、と。そして、わたしたちは同じ目線でイエスさまに振り向くことができます。背伸びすることなく、・・・・・。
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