復活の主日(B年)
2009年4月12日(B年)-転機-
復活の主日(B年)(ヨハネ20.1~9)
今日のみことばを読んでいるうちに、遠い昔のことを思い出してしまいました。わたしが知覧町に住んでいた頃の話です。昭和24年(1949年)の夏です。わたしは初めて鹿児島の町へ両親と一緒に行きました。その目的が何だったのか記憶にありません。ただ憶えているのは、変な建物があったということ、その中に両親が入っていって長い間出てこなかったということです。その建物とは以前の木造建築のザビエル教会でした。
戦争で破壊された石造りの教会が未だ残っていました。その横にそれまで見たことのない建物がありました。お寺ばかりを見てきたわたしにとって、教会の建物は異様というより不思議に見えました。子どもだったわたしは、待ちくたびれて石造りの教会内で走り回っていました。多分立ち入り禁止だったのでしょう、案の定、誰かにしかられました。
今思いますに、しかった人は当時の主任司祭で、両親はゆるしの秘跡を受けに教会に入っていったのではないかと。長い償いの祈りを(?)命じられたのでしょうか?わたしたち家族はみな、幼児洗礼でした。何年も教会にいけなかったことのゆるしを受けたのでしょう。また知覧に戻ると、教会にいけない状態はつづいたのですが、・・・。
両親は、どうにかして今までの生活から抜け出し、たとえミサにいけない状態がつづいたとしても、安心できる指標が欲しかったのでしょうか。両親が亡くなった今となっては確かめようがありません。
今日は主の復活の祝日です。わたしたち信者一人ひとりにとって、すべてが新たに始まる日でもあります。たとえ、どんなに苦しい状況でも、そこから解放され、つらい生活を強いられていても、希望の力をいただき、軌道修正をして新しい人を目指すきっかけにできる日です。人間の常識を超えたところに、新たな始まりの出発点があります。
マグダラのマリアは彼女の常識範囲で、イエスさまが「連れ去られた」出来事を追い求めます。当然の成り行きです。ユダヤ人の習慣どおりに、香料を塗り、布でつつみ新しい墓に納めたのです。その墓が空です。考えられないことです。彼女は「誰かが持ち去った」と考えるほうがごく自然です。ペトロへの報告も「誰かが主を墓から取り去りました」(2節)です。主の復活は、イエスさまと一緒にいた時代(古い人)を超えて、新たにイエスさまと一緒にいる時代(新しい人)への始まりの宣言です。そのように変えられていくのです。「わたし」が願い続ける限り、・・・・・。
かつてのわたしの両親にとって、あの日が「復活」だったのでしょう。その後まもなく、長崎へ転居することになりました。しかも、大浦天主堂のすぐ傍での長屋生活が始まったのです。紆余曲折を経て今の「わたし」があります。
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