復活節第2主日(B年)
2009年4月19日(B年)-団欒の場-
復活節第2主日(B年)(ヨハネ20.19~31)
「一家団欒」ということば、だけでなく、そのような生き様自体も無くなりつつあるのでしょうか。実際にその実体がないからこそ、「ことば」も使われなくなったのでしょう。元来人は一人でいるのはよくないといって、伴侶を神が創造なさった理由を考えますと、わたしたちは「群れている」ことが似合っているのです。群れていることによって新たな力を得、発展、成長していきます。
現在の家族は、その求心力を失い、「群れる(団欒する)」ことの必然性を放棄しています。最悪の「離散」に走っているのです。悪いことに、誰もそれに気づかないのです。「離散」からは不安と恐れと失望しか生まれてきません。「群れる場」としての一番身近な、その上、一番安定した家庭が、現代では「空っぽ」なのです。親はそろって家の外で働き、子どもは塾通いと部活。人間本来の姿は、やはり「群れる」ことにあります。しかも、近しい人との群れから始まります。意識する必要のない「安心感」があるからです。
トマスはどこに行っていたのでしょうか。誰もが不思議に思うことです。今日の福音書を読み込んでみますと、どうやら彼だけがいなかったように感じられます。どこかを「逃げ回って」いたのでしょうか。あれだけ慕っていた師を亡くし、そのショックのあまり、そうせざるを得なかったのでしょう。「逃げ回っている」間に、師のうわさが耳に入り、少しずつ癒されていったのでしょう。やっと仲間のいる場(団欒)に戻ることができたようです。
イエスさまは、一番傷ついているトマスに最初に語りかけます。ここにイエスさまのやさしさを感じます。「信じる者になりなさい」と。不信に満ちていたトマスを迎え入れた仲間たちも同じ体験をしていたからこそ、快く彼を迎え入れることができたのです。ここに「教会」の姿があります。教会は本来的に「団欒の場」であり、そこから得られる癒しと活力の源です。誰でもが悩みを抱え、不安に駆られるときがあり、落ち着きをなくしがちです。話してみると意外と同じ悩みで苦労していたり、迷っている時がたくさんあります。みすみす恵みのときを逃していることがあるのです。
トマスは恵みのときを逃すことなく「わが主、わが神よ」と信仰告白ができました。こうなった後のトマスは「鬼に金棒」です、多分、・・・・・。そして「全世界に行き、すべての者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16章15節)というイエスさまの命に、忠実にしたがって生きていったのではないかと考えられます。そこにトマスらしさを感じます。別のことばを借りるならば、人間トマスの常識を超えたところに、トマスの信仰は高められ、そこに新たな生き方を発見できたということでしょう。
主の復活はそうなることを可能にしてくれた祝日(出来事)です。わたしが求める限り、・・・・・。
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