復活節第4主日(B年)
2009年5月3日(B年)-羊飼いのごとく-
復活節第4主日(B年)(ヨハネ10.11~18)
人は誰かに期待されているとわかると緊張します。普段だと難なくできることもチグハグになったり、失敗したり、場合によってはその場の雰囲気を壊したりしてしまいます。最近は結婚式を執り行うことが少なくなりました。司祭はあくまでも仲介者でしかないのですが、久しぶりに司式を依頼されますと、年甲斐もなく緊張してしまいます。何かを期待されているわけでもないのでしょうが、前準備をしたつもりでも、式の流れを気にしたり、雰囲気を壊さないようにと思ったりして、変なところに気が取られます。生きている証拠でしょうか。
別の見方をしますと、それだけ「大切にしている」という裏返しでもあるようです。といいつつ自己慰めをしています。「慣れっこになる」ことのほうが本当は怖いです。それこそ自分がK.Y.さんになってしまいます。これと似たようなことはよくあります。「初心」に戻るようにとよく言われますが、その初心すらも覚えていないという人もいるのではないか、と感じさせるような出来事が起こります。
「人に尊敬される神父になれ」とは父親のことばです。中学校に入学する前のわたしには、その中身がどんなことなのかよくは理解されておりません。しかし、その後、何かといえばこのことばを思い出すものでした。今でも気になることばのひとつです。無意識のうちにわたしを、いい意味で、コントロールしてきたことばなのかなと思ったりします。
人と動物との関係においては、まさにことばの「音」によってつながっている感がします。動物はいつも聞いている「音」を耳にすると安心して行動します。かつて、我が家に九官鳥がいました。母といる時間が長いためか、母の声には反応します。しかし、たまに帰るわたしの声には反応しません。正直だと思いました。
今日の福音に出てくる羊たちも、いつもの羊飼いの声にはその「音」にしっかりとしたがいます。しかし、雇い人の「羊飼い」の「音」にはそうでもないよ、といわれているかのようです。羊との関わりの根拠が両者の間では違うからでしょう。羊飼いの場合は、羊を愛するという「愛の論拠」、雇い人のそれは「損益の論拠」である、とイエスさまはおっしゃいます。それを動物に見透かされているのです。いわゆる、動物に無視されています。人にとっては、これほど癪に障ることもないでしょう。
イエスさまがよい羊飼いである、といわれるとき、羊は「わたし」です。その「わたし」のために、ご自分を無にしてしまわれるのです。「愛の論拠」から出てくるわたしたちへのまさに奉仕です。「愛の論拠」には、イエスさまとわたしたちとの「きずな」が本性的なものであるという考えが隠されています。いわば、「親子のきずな」と同じであるのです。選択の余地はないのです。ある種の必然性が横たわっています。それほどに、わたしたちと関わっておられるのです。
「尊敬される人」とは、他者に奉仕する人であります。「尊敬」はその実りとしてわが身に自ずと返ってくるものでしょう。そうあり続けたいものです。
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