復活節第5主日(B年)
2009年5月10日(B年)-わたしの答え、・・・-
復活節第5主日(B年)(ヨハネ15.1~8)
幼稚園教育に従事していますと、子どもの動きからたくさんのことに気づかされます。そのいくつかを挙げますと、子どもには「駆け引きがない」「そのままの自分を出せる」「いつも真剣であり、一生懸命である」などです。それに引き換え、大人は「駆け引きでことを運び」「出し惜しみをし」「適当に手抜き」をしますし、できます。すべての大人がいつもそうしているというわけではありませんが、「政治は駆け引きである」という人がいます。
「駆け引き」を別のことばで言えば、自己の世界に閉じこもった「鎖国」的な生き方といえないでしょうか。時と内容によっては必要なこともあるでしょう。しかし、人と人との真摯な関係の中では、そうありたくないと思います。第一、その人の成長が止まってしまうのではないでしょうか。相手の方を信用できないし、そこから絶えず不安をいだきつつ毎日を過ごすことになります。「安堵感」が実感できないのです。その人に「とどまっている」ことが楽しくないのです。すぐに背を向けたくなるのです。
子どもと接するとき、裏切られることもないし、場合によっては、真剣に振舞っている「ふり」を大人がしても、子どもは真剣に相対してくれます。子どもの中には、理屈ではなくて、感性で安心なのか、そうでないのかをわかっていくようです。
イエスさまの「十字架の道」での出来事の中で、ペトロがイエスさまを「知らない」として否んだ行為は、ひょっとして「保身術」という人間誰しもがもっている感覚がそうさせたのではないかと感じる時があります。「判断する」時間がなく、ついポロリとこぼれてしまったことば。それでも、外に出て激しく泣いたペトロの行動からすると、そうではないなということになります。
弟子たちは、イエスさまに「とどまりつづける」ことを、あの「十字架の道」では不利と判断したのでしょう。しかし、イエスさまは安心できて、有利なのは「わたしにとどまること」であると、今日の福音は宣言します。
大人の意志とは関係なく、子どもたちが安心してついてくるその心、感性を持つように、イエスさまは今日、わたしたちに説かれます。そこでは「駆け引き」を心配することなく、心底、安心できる生き方ができますよ、と諭されます。
誰かとともに「とどまり続ける」ためには、共にいて安心感がなければ、信頼心がないと、苦痛になります。イエスさまとの関係は、自ずと「実をむすぶ」ようになるのだと言われます。つまり、そこに新たな「わたし」が登場するのです。わたしからその「縁」を切らない限り、その関係は続きます。それが、イエスさまとわたしたちとの本質的な「あり方」なのです。そうありたいとイエスさまは望まれるのです。さあ~、わたしたちの答えは、・・・・・
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