年間第13主日(B年)
2009年6月28日(B年)-打ち砕かれた人-
年間第13主日(B年)(マルコ5.21~43)
先日、トルコ巡礼の機会をいただきました。パウロの「宣教世界」への旅立ちでした。新型インフルエンザが少しは下火になってはいましたが、周囲の人が心配する中、喜び勇んでの始まりでした。みなさんマスクを持参していましたが、一度も使うことなく楽しい旅で、元気に帰国することができました。帰国の際、成田空港では、職員の全員がマスクをしている姿には違和感を覚えたくらいです。それとも、相手への配慮とエチケット上、常時マスクをすることになったのでしょうか。そうであればいいことだと思いました。
この度の巡礼は、タルソに始まりアテネで終わりました。現在のトルコは緑豊かな肥沃な土地であるという印象でした。この景色にまずはトルコの印象が、わたしの中で塗り替えられました。自給率100%だそうです。認識不足とはいえ、これにも驚きました。
現地を訪れて新たにわかることはたくさんあります。わたしがなんとなく不思議に思っていたことも明らかになったような気がします。パウロは、どうして他の12使徒とちがって、イエスさまのことをあれだけ知らしめることができたのか、ということです。12使徒は、いつもイエスさまの傍らにいてその教えを聞き、その業を見たり、特別に訓示を受けて「使徒」としての資質を高めていったのに、パウロはイエスさまと一回も会っていません。なのに、あの広大なトルコの地を歩き回って宣教しました。
その根拠にあるのは、パウロは「熱心な迫害者であった」ということにあるのではないか、ということです。変な言い方ですが、・・・・・。パウロは自分がヘブライ人であることを誇りにしていました。したがって、救いのこと、メシアのこと等、よく勉強し、信仰熱き人間で、その生き様もすばらしいものでした。その熱心さ、真面目さ、純粋さが、あのダマスコの事件以来イエスさまのほうに傾いていったのでした。イエスさまを迫害することにおいても中途半端ではなかったのです。その徹底ぶりがイエスさまのよき宣教者へと変身させたのです。外部からの批判にも臆することなく、パウロ「らしさ」を表に出していきました。
今日の福音に登場する会堂の司・ヤイロも、その人らしさがにじみ出ています。「父親」としての姿です。公職についているときは、民の指導者的役割を演じていても、愛する娘がどうしようもない病に倒れると、親として心配する姿がさらけ出されます。権威ある職にある人であればあるだけ、表に出てくる違いの大きさが際立ちます。きりりとした姿が一変して弱々しい姿に変貌します。そして手を合わせて祈り叫びます。この姿こそ、祈る人の真のあり方であるといえます。そこには「恥も外聞」もなく、意識すらされていません。
動機が「娘の回復だけ(利益)をひたすら願っていた」のかもしれませんが、逆にそのことはヤイロの純真さを証明しているようです。であっても、イエスさまは彼の動機をたかめていかれます。「ただ信じよ」と。こうしてイエスさまの真の姿に触れていきます。打ち砕かれた「自分」とはいったい、・・・・・。
- カテゴリ
- 後半の年間主日
- 固定リンク
- ¦
- コメント (0)
- ¦
- トラックバック (0)
- トラックバック用URL:
- http://mr826.net/yz/seisyo_message/message/090628/tbping