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カトリック鹿児島司教区司祭・Fr.YASUです。毎週、木曜夕方更新が目標。日曜日の聖書の言葉をもとにメッセージ(説教)を練っています。ツッコミ?やエールなどがありましたら、コメント欄にお願いします。
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待降節第2主日 Fr.YASU 2006-12-07
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久しぶりの鹿児島は暑さが倍増したようで・・。 べるなでった 2007-08-22
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聖霊降臨の奇跡 べるなでった 2007-05-27
 
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待降節から主の公現

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クリスマスを準備する12月初めから新年の主の公現まで6週間

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待降節第1主日

2006年12月3日(待降節第1主日)・・・自分のありのままを・・・

by Fr.YASU posted at 2006-12-01 10:20 last modified 2007-01-18 11:20

 C年司祭

待降節第1主日=C年(ルカ21.25~28、34~36)

 今日から待降節。典礼暦もC年に入りました。いわば新年です。そして、神がどのようにして人間を救われようとしているか、その救済史が典礼を通して新たに始まります。

 「徳田前議員難病を告白」の見出しで、全身の筋肉が動かなくなる進行性の難病、筋委縮性側索硬化症(ALS)にかかり闘病中であることを、告白したという記事が出ていました。(南日本新聞2006年11月30日朝刊)徳田虎雄氏(68歳)は、「駆け出しの患者です。人生は苦しいことが多いほど豊かになる。神はぼくをもっと幸せにするためにこの病気を与えた」と言って、笑顔を見せた、というのです。しっかりと病気と相対しているなと感じました。同時に、病気にかかる以前とは違った「生きる」事へのこだわりが出てきたのかなと思います。置かれた現実があまりにも違い、それでも命があるという今の自分に、新たな希望、飢えを覚えているのではないかと感じます。

「無いものねだり」をすぐにしたくなるのは人間の現実ですが、人生はいばらに満ちた苦しいものであるという現実に目をつぶるわけにもいかないのです。人生に躓きを覚えると、悲壮感、自己嫌悪に陥ってしまいがちになりますが、決して諦めてはいけないのです。人間の力ではどうすることもできないことばかりでも、頭を上げて、神を仰ぎなさいとイエスさまは言われます。

 人間のもろさ、悲哀を一手に引き受けてくれる力強い神がいるじゃないか、と励ましてくださいます。
 わたしたちは、人とのふれあい、出会いを通して豊かになりますし、反面、落ち込みもします。したがって、幸せ、喜びと不幸、悲しみは隣りあわせといってもいいでしょう。わたしたちは決して悲しみを求めていません。喜び、幸せを希求します。この望みは、幸せでも、不幸の状態にあるときでも同じです。同じような望みを持ち続けるためには、己の人生のありのままを容認することから始まるのではないでしょうか。徳田虎雄氏がそうであるように。そこから、また新たな希望、飢え渇きが生じ、それまでとは違った生き方を発見させていただけるでしょう。

待降節第1主日 待降節第1主日
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by yaziro last modified 2007-01-18 11:24
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待降節第2主日

2006年12月10日(待降節第2主日)-どちらの自分?-

by Fr.YASU posted at 2006-12-07 00:00 last modified 2007-01-18 11:21

 C年司祭

待降節第2主日=C年(ルカ3.1~6)

 師走になりますと、教会にはあらゆる施設から寄付金のお願いの便りと振り込み用紙が同封されてきます。施設に関与されている方は必死の思いをこめて送付されていると思います。それに反して、私は・・・。教会現場にいますと、どこか冷めている自分を感じます。

 ということは、自分が困っていないからでしょう。生活が安定し、贅沢ではないにしろ普通に生きていられる自分があるからです。毎年この時期になりますと、心が痛みます。

先週のこの時間に、徳田虎雄氏のことを書かせていただきました。難病に罹り、人間の真の豊かさがそこにあると分かり、自ら今の自分の状態を告白されたということでした。自分ではどうしようもできない状態になって、本来の姿を取り戻す人もいれば、不満、愚痴だけが出る人もいます。双方とも人間の現実の姿であると思います。

 私たちは、この待降節の期間を、どちらの「現実」に類する自分なのかを見極める時として、位置づけてもいいのではないでしょうか。双方に共通することは、どちらにころんでも、人間は「ゆるしを求め続ける」存在であるということでしょう。

 今日の福音では、バビロンに流され、祖国に帰ることができない状態に置かれたユダの人びとへの、よろこびの「叫び」が読まれます。祖国とバビロンの地の間には、荒涼とした土砂漠があり、簡単に帰ることはできませんでした。そこで彼らは、これまでの自分たちがしてきたことを心底悔いるのです。神がその歴史の中で自分たちにしてくれたことを思うに、裏切りばかりをしてきたと感じてきたのです。本来の自分たちを取り戻すことに成功したのです。それに対する神の答えが「主の道を整え、その歩む道をまっすぐにせよ。すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くされ、曲がりくねった道はまっすぐに、でこぼこ道は平らにされ、人は皆神の救いを見るであろう」というヨハネの叫びだったのです。

 わたしたちはどのような生き方をしていても、誰かに頼り、誰かにゆるしをいただき、励ましを受け続けています。かのユダの人々がそうであったように、自分と神の間柄を見据え、その関係を意識したいものです。

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