聖なる過越の三日間

聖なる過越の三日間

カテゴリー 折々の想い 公開 [2015/04/01/ 00:00]

今年の四旬節もいよいよ大詰め、主キリストの受難と復活を記念する「聖なる過越の三日間」(Sacrum Triduum Paschale)を迎える。この聖なる過越の三日間は、一年を通して記念するキリストの神秘の中心であり頂点であって、特別の関心の的である。

そこで、第2バチカン公会議の指示によって改訂された新しい典礼に基づいて、過越の三日間を想起してみよう。まず、「聖なる過越」(Sacrum Paschale)とは、神の民の出エジプトを記念する旧約の「過越祭」を完成するもので、人類を死から解放して新しい神の子の命へ導く救いを成就した、主キリストの死から復活への出来事を、「過越の神秘」として記念し、祝うものである。この過越の神秘はミサの中で「信仰の神秘」とも呼ばれる。信仰の対象だからである。なお、「“過越”の原語は、ヘブライ語ではペサハ、アラマイ語ではパスハー、ギリシャ語ではパスカである」(聖書思想事典)。

次に、「三日間」(Triduum)とは、当時のユダヤ人社会の習慣に従って、主の復活に先立つ聖木曜日の日没から復活祭当日の日没までの三日間のことで、「主の晩餐の夕べのミサ」に始まり、その中心を復活徹夜祭に置き、復活の主日の『晩の祈り』で閉じる」(『典礼暦年の一般原則』19)。なお、今年の聖なる三日間は4月2日から4月5日までである。

では、ここで、聖なる過越の三日間の一連の典礼の要点を考えてみよう。

・主の晩餐の夕べのミサ

聖木曜日の「夕がたの適当な時刻」に行われる「主の晩餐」は、旧約の過越の食事を記念するもので、出立のあわただしい中で酵母を入れる暇がなかったことを記念して、酵母のない「種なしパン」の晩餐であったが、主キリストは救いのいけにえとなるご自分の死を先取りして記念する新しいパンとぶどう酒の晩餐、すなわち聖体祭儀(ミサ)を制定するものであった。また、パンとぶどう酒を分離して聖別し奉献する仕方は、からだと血が分離されたキリストの死を象徴している。

さらに、聖体の秘跡は神の養子としての超越的ないのちの糧となるものであり、そのいのちの本質は「神の愛の交わり」であるから、聖体の秘跡は神の愛の極致である十字架上のキリストの愛のしるしでもあり、したがって聖体にあずかることは教会の愛の交わりを強化することに他ならない。主の晩餐のミサで行われる「洗足式」は、弟子たちの足を洗ったキリストの模範の記念として意味深長である。

同時に、主の晩餐は聖体の聖別を執行する祭司職(叙階の秘跡)の制定でもあったことは周知の通りである。

・主の受難

聖金曜日の午後(または信者の便宜も考えて夕刻)に行われる「主の十字架の死」の記念であるが、受難の典礼の初めに行われる「盛式共同祈願」は意味深い。なぜなら、キリストの受難と死が人類全体のためであったからである。この祈願の対象は、その順序に従って①「教会のため」、②「教皇のため」、③すべての教会位階と信徒のため」、④洗礼志願者のため」,⑤キリスト者の一致のため」、⑥「ユダヤ教の人々のため」、⑦キリストを信じない人々のため」、⑧「神を信じない人々のため」、⑨国を治める人々のため」、⑩困難に直面する人々のため」である。

典礼はこのあと、「十字架の礼拝」が行われる。「教会は、おお十字架、われらの唯一の希望よ、と歌って、十字架を崇敬する」(『カトリック教会のカテキズム』617)ことを想起したい。続いて「交わりの儀」が行われ、キリストが十字架の死による極限の愛のしるしとして、前夜聖別されたご聖体を皆でいただく。

・黄泉(死者の国)に降る主の記念

聖土曜日は日没まで何の典礼も行わず、死んで黄泉(死者の国)に下り、アダムに始まるすべての死者と共に過ごされた主を黙想する。「それは、墓に納められたキリストが宇宙全体に平和をもたらす人類の救いを成就して神の大安息に入られたことを示す、聖土曜日の神秘である」(『カトリック教会のカテキズム』624)。

なお、当時のユデア人の常識として、死者の腐敗が始まるのは死後四日目からであるされる。キリストは死んで三日目に復活して、死の腐敗に服することはなかった。

・主の復活

キリストの「死者の中からの復活」の記念の中心は、言うまでもなく聖土曜日の日没後に行われる「復活の聖なる徹夜祭」である。「古来の伝統に基づき、今夜は神のために守る徹夜(出エジプト12,42)とされている。福音(ルカ12,35以下)に勧められているように、信者は灯りを灯して主の帰りを待つ。こうして、主の帰られる時、目を覚ましているのを見いだされ、主と共に食卓に着くよう招かれるのである」(復活徹夜祭のルブリカ)。

典礼は、火の祝福と復活のローソクの祝別の後、荘厳に「復活賛歌」が歌われる。残念なことに、かつての復活賛歌では、「救い主をお迎えすることを得させた罪は何と幸いなことか」と歌っていたが、誤解を避けるためか、「幸いな罪」(O felix culpa)という歌詞が日本語訳にないのは寂しい。

続く「言葉の典礼」では、天地創造に始まる救いの歴史が七つの聖書朗読によって回想されたあと、鐘を打ち鳴らしながら荘厳かつ高らかに「栄光の賛歌」が歌われ、共同体の喜びはクライマックスに達する。

このあと、「洗礼式」と「洗礼の約束の更新」が行われる。聖パウロが教えるとおり、洗礼はキリストの過越の神秘にあずかることであり、聖なる過越の三日間の頂点の一つである。人は洗礼を通して罪からゆるしへ、死から命へ、悪の束縛から神の子の自由へ、地上の命から天上の命へ、時間から永遠の世界へ、したがって地上の国から神の国への過越である。

洗礼更新式の後、聖体の典礼へと続く。

・復活節について

「復活の主日から聖霊降臨の主日に至るまでの50日間は、一つの祝日として、また、より適切には『大いなる主日』として、歓喜に満ちて祝われる」(典礼歴年に関する一般指針)ので、この季節は復活節と呼ばれる。

最後に、「聖なる過越の三日間」の典礼は、信者にとって信仰の確信と喜びを表現し倍増する重要な儀式だから、万障繰り合わせて参加すべき儀式であることを認識したい。世の中の世俗化が進み、罪悪がはびこる時代であれば、その重要性は倍加するであろう。



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