“病める家族”とその癒し

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > “病める家族”とその癒し

“病める家族”とその癒し

カテゴリー カトリック時評 公開 [2015/05/25/ 00:00]

最近、『家族という病』という下重暁子の本の広告が朝日新聞に繰り返し大きく掲載され、しかもすでに15,5万部を突破した(4月21日付)とあるのを見て、大いに驚くと同時に、“これまで神聖化されてきた家族を斬る”という勇ましい広告を読んで、この本の真意はどこにあるのかという疑問に駆られた。

読んでみると、“家族とは何なのか”と問いながら、現代家族の実態をさまざまに語りながらも、心温かな真の家族像を追い求める筆者の気持ちが伝わってきた。ただ、本来の家族が何であるか、その病の原因が何であるかを確かめない限り、病める家族の健全化はあり得ないのではないか。そこで、カトリック教会の見解を明らかにしようと思う。

一組の男女の結婚によって成り立つ家族は、その離婚によって破壊されるから、離婚は病める家族の象徴とも言っていいのであるが、あるとき、キリストは、「何か理由さえあれば、夫が妻を離縁することはゆるされていますか」と問うファリザイ派の人々にこたえて言われた。「あなた方は読んだことがないのか。創造主は初めから、人間を男と女とに造り、『それ故、人は父母を離れて自分の妻と結ばれ、二人は一体となる』と仰せられたことを。したがって、彼らはもはや二人ではなく、一体である。それ故、神が合わせたものを、人間が離してはならない」(マタイ19,3-6)。

家族とは何か、という質問への答えは、人類創造の初めに立ち返らねばわからない、ということであり、結婚と家庭は創造主である神が定めた制度であって、したがって、家庭の健全化は神の定めた秩序に戻さなければならないということである。そこで、創世記の人間創造物語を読んでみよう。

「神は仰せになった。『われわれにかたどり、われわれに似せて人を造ろう』。…神はご自分にかたどって人を創造された。人を神にかたどって創造され、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して仰せになった。『産めよ、増えよ、地に満ちよ、そして地を従わせよ』…」(創世記1,26-28)。

つまり、人間は単なる「個人」(individuum)ではなく、「神の似姿」、すなわち知恵と自由を備えた独立主体、つまり「人格」(persona)として造られたのであり、したがって、人間は愛し愛される社会的存在であるいうことである。教皇ヨハネ・パウロ2世の有名な使徒的勧告『家庭――愛といのちのきずな』(Familiaris consortio)は、人間は、愛である神によって、愛のために造られたと、次のように述べている。

「神はご自身の“似姿”に人間を創造されました。神は人間が“愛によって“生きるように招かれると同時に、“愛のために“造られたのです。神は愛であり、ご自身の内に人格的な愛の交わりの神秘を生きておられます。人間をご自分の似姿として創造し、存続させながら、神は、男女の人間性に招きを与え、愛し交わる力と責任を課されました。愛はすべての人間の根本的な生まれながらの召命です」(n.11)。

こう見てくると、愛といのちのきずなである結婚と家庭は、初めから神が定められた制度であるから神聖であり、したがって、もし「家族という病」があるとすれば、その病の原因は人間にあることになる。事実、聖書が語るところによれば(創世記第3章参照)、人祖アダムとエバは悪魔の誘惑に負け、神の定めに背いて罪を犯した。その罪とは、神の立場に自らを置く傲慢の罪であって、その結果、知恵は曇り、意志は弱まり、万事において悪へ傾く病を身に帯びることとなった、そればかりか、自然界も人間に敵対することなり、人間は額に汗して糧を稼ぎ、利己的な個人主義にさいなまれて愛を生きることが困難になった。

要するに、家族に現れるさまざまな病は人間の罪に原因があり、この原因を取り除いて、再び神を愛してこれに仕え、隣人を愛して一つになる恵みを受けて「神の似姿」を回復する必要があるのだ。人間を愛してやまない神は、独り子をこの世に送って人類を贖われた。「神は独り子を与えるほど世を愛された」(ヨハネ3,16)と主は言われる。

わたしはカトリック聖職者として、キリストを信じてその愛にあずかり、さまざまな人生苦に悩まされながらも、円満で温かい家族生活を送る家庭を数多く見てきた。わが家でも、長崎キリシタンの血を引くゆえに貧しく、また大家族でもあったが、それでもカトリック信仰に導かれ、日々の祈りや日曜日ごとのミサ参加などを通してキリストの恵みに癒され、懸命に働きながら幸せな毎日を送っていた。年に6回めぐってくる大祝日には、家族全員が前もってゆるしの秘跡にあずかって心を清め、家族のきずなを強め、聖化していただいていた。

新聞やテレビに映し出される世間の不幸な家族を見るにつけ、「家族という病」を嘆くよりも、悔い改めて神に立ち返り、身も心もキリストの愛と恵みに生かされるよう努めてはどうかと、考えてしまう。家族の病の原因は人間だが、その癒しは神の恵みだからである。