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2006/11/01/ 13:37
- 糸永真一司教のカトリック時評
 - カトリック時評
- 「現代世界憲章」発布50周年
 - カトリック教会の平和運動
 - “神のうちに生き、動き、存在する”
 - 「反知性主義」について
 - “病める家族”とその癒し
 - 戦艦武蔵に見る戦争の愚かさ
 - 第2バチカン公会議から50年
 - 若者に人生の理想と使命感を
 - 復活のキリスト、希望のしるし
 - キリスト教の本質を問う
 - 政治的自由の尊重
 - 表現の自由の意味と限界
 - 戦後70年、信教の自由は
 - 憲法改正論者の真の目的は何か
 - 家庭のモデル――聖家族
 - “他人の役に立とうとする”人が増加
 - 道徳教育とは何か
 - 男性が輝く社会
 - 人は、なぜ生きる?
 - 「女性が輝く社会」とは?
 - 高1同級生殺害事件をめぐって
 - 教皇の’14平和メッセージ再読(4)
 - 教皇の’14平和メッセージ再読(3)
 - 教皇の’14平和メッセージ再読(2)
 - 教皇の’14平和メッセージ再読(1)
 - “人件費は経費ではない”
 - 教皇、武器売買を非難
 - キリストはいまも生きている
 - 教皇の「世界広報の日」メッセージ
 - 二人の元教皇の列聖について
 - 今年の復活祭の想い
 - キリストによって明かされた“人類の秘義”
 - 「神の子」が「人の子」となった日
 - キリシタン大名 黒田官兵衛
 - 永井隆博士、英国で映画になる
 - 信仰に目覚める若者たち
 - “いのちの聖域”への生殖医療の介入新事情
 - 平和の実現、兄弟愛なしには不可能
 - 神の子の受肉の神秘
 - 金銭欲は諸悪の根源
 - 全国学力テストの公表問題
 - 人間は大勢(おおぜい)でも、その本質は一つ
 - 規範なき道徳教育は無意味
 - 人間は神を知ることができるか?
 - 人間の真実と幸福はどこに?
 - 消費主義からの脱出のメッセージ
 - サンフランシスコ講和条約から62年
 - 和魂洋才の時代に戻るのか
 - 社会に対する個人の責任と参加
 - 少子化論の現状とその盲点
 - 人は神なしには生きられない
 - 増殖するブラック企業の恐怖
 - 憲法改正言論議について思うこと
 - 家庭は「社会の生きた細胞」
 - 人間労働の価値と目的について
 - 学校教育に対する親の権利と責任
 - 道徳の教科化は必要か
 - 浜矩子著『新・国富論』を読んで
 - 体罰問題と教師のモラル
 - 交響曲第9を合唱する日本人
 - 「新型出生前検査」をめぐって
 - 教会は「救いの普遍的秘跡」
 - 「貧しさ」、キリスト教のキーワード
 - 「キリストの秘義」は「人間の秘義」
 - “働きたくない者は、食べてはならない”
 - “目的は手段を正当化しない"
 - 第2バチカン公会議の歴史的意義
 - 増え続ける“児童虐待”事件
 - いじめに負けない子を育てる
 - 政治的混乱の中で「政治の本質」を問う
 - いじめをなくするために何が必要か
 - 世界平和は一人ひとりの心に始まる
 - プライバシーという名の個人主義
 - 不可知論とキリスト教
 - 無神論に対するキリスト者の挑戦
 - 第2バチカン公会議の平和メッセージ
 - 教会は政治について語る
 - 教会は文化について語る
 - 公会議は経済について語る
 - 結婚と家庭は神が定めた制度
 - 信教の自由に関する宣言
 - 人類に奉仕する教会
 - 人類に語りかける教会(現代世界憲章序文)
 - 「神聖にして侵すべからず」
 - 教皇の「世界平和の日」メッセージから
 - あらためて人生の展望を開く
 - 2011年の“時のしるし”
 - 悔い改めて「愛」を待つ季節
 - “食といのち”の対談記事を読んで
 - “強欲資本主義の象徴”について
 - いまや所得格差是正の好機だが
 - キリスト教の「福音」とは
 - iPSから生殖細胞、是か非か
 - 問われる日本人の教養
 - 福島第一原発事故の教訓
 - 世界の中の日本になる
 - 国家のイメージ――「政治共同体」
 - キリスト教と諸宗教との間
 - 東日本大震災と「いのち」の神秘
 - メディアの霊性とモラルを求めて
 - 来日した、ただ一人の教皇の列福
 - 自殺防止にはキリスト教が一番
 - 試練に耐えて、頑張れ日本
 - もしや“キリスト教ブーム”の再来か
 - “小西行長 見直し進む”
 - “欲望は権利ではない”
 - 「助けての言えない」閉ざされた社会
 - 日本26聖人は、なぜ殺されたか
 - 無縁社会から共同社会へ
 - 「地上の平和」の原型は「キリストの平和」
 - “御言葉は人となり、われらのうちに住み給へり“
 - 「信教の自由」の前提は「信教の権利と義務」
 - 基本的人権の根拠と目的は何か
 - 経済成長は多くの人を不幸にする?
 - 正義とは何か
 - 教会が求めるのは神の国であって、地上の国ではない
 - 良心の延長線上にあるキリスト教
 - 所在不明高齢者を生む個人主義社会
 - 人は政治だけで生きるのではない
 - 排他主義から包括主義への転換
 - 政治も経済もその理念が大切
 - 中東地域のカトリック教会
 - “禍を転じて福となす”
 - 権威はすべて神に由来する
 - 「命の私物化」という語を読んで
 - マスメディアの使命を考える
 - 「現代霊性論」をめぐって
 - 子育ての意義を考えるチャンス
 - キリスト教の神と神道の神々(2)
 - キリスト教の神と神道の神々(1)
 - 「無縁社会」と家族共同体の再建
 - 人間の召命と使命における責任について
 - 人間共同体の危機とその対策
 - 環境問題の倫理性とその根拠
 - ダーウィンの『種の起源』から150年
 - 神の子は、なぜ人の子になったのか?
 - キリスト者の歴史感覚
 - 真に幸福な人間とは誰か
 - 経済体制と消費主義
 - 人は政治だけで生きるのではない
 - 弱者優先こそ政治の要諦
 - 臓器提供は人間愛の行為
 - 科学技術の進歩と人間の進歩
 - 皆既日食―光と闇の神秘を想う
 - 時代精神―主観主義・個人主義
 - 家庭本来の機能回復が急務
 - 「友愛」の思想と政治哲学
 - 教皇の聖地巡礼と中東の平和
 - 核兵器廃絶と貧困の終焉
 - あらためて問う、胎児は人間か
 - 人は自由、だから選択の責任が
 - 愛によって、愛のために
 - 人類の歴史ドラマ――主役は神か人間か
 - 世界不況の今、なぜ和魂洋才か
 - 人はなぜお金に執着するのか
 - オバマ大統領、妊娠中絶を容認
 - 壮大な宇宙の謎を解く
 - 資本か労働かー古くて新しい問題
 - 「キリストこそ真の哲学者」
 - 世界人権宣言60周年
 - キリスト教はアジアに通じないか
 - 虚偽に満ちた人間社会
 - シドッチ神父来日300周年
 - 政治の使命と限界
 - 基本的人権としての信教の自由
 - 原爆から63年、核廃絶の願いは
 - 「パウロ年」の意義を問う
 - 死刑制度の存廃をめぐって
 - 巨大化するマンモン(富)の脅威
 - 岐路に立つマスメディア
 - アブドラ国王、一神教サミットを提唱
 - 正念場を迎えた日本の民主主義
 - ヒューマン・エコロジーの問題
 - 生命の始まりについて
 - 地球温暖化問題をめぐって
 - 国際貢献と言うけれど
 - 万能細胞と生命倫理
 - 人類は一つの家族
 - 人間の偉大さと惨めさ
 - クリスマスの贈り物
 - 医療の限界と人間の希望
 - 「家族の日」について
 - 「教育バウチャー制度」を問う
 - 共産主義の発端と終焉
 - 靖国神社参拝の是非について
 - 韓国の太陽政策をめぐって
 - 富裕層ブームの到来
 - 存在か所有か
 - わたしの戦争体験から
 - 自殺防止の決め手はあるか
 - 教師の教育的権威と尊厳
 - 子どもは親だけの責任ではない
 - 衰えぬ人命軽視の風潮
 - 道徳教育は良心の教育
 - 人はなぜ、何のために働くのか
 - カトリック学校への期待
 - 政治家の資質と使命
 - 政教分離の原則について
 - 愛国心の問題について
 - いのちの神秘とその召命
 - 平和な日本再生の鍵は労働問題
 - 「いじめ自殺」が残した教訓
 - ヨハネ23世の『地上の平和』
 - 鹿大病院のクリスマス
 - 家庭の教育的役割とその危機
 - 教育基本法改正案をめぐって
 - 『カトリック時評』を始めるに当たって
 
 - 折々の想い
- ザビエルが出会った日本人
 - 「全キリスト」とは
 - 聖霊の働きを知る
 - 教会に戦争責任を問えるか
 - 堅信の秘跡のカテケージス
 - 聖霊と教会の時代の到来
 - キリストの復活の意味と力
 - 聖なる過越の三日間
 - 洗礼による再生の恵み
 - 四旬節における悔い改めとは
 - “信仰は与えるとき強められる”
 - 長崎の「信徒発見」物語
 - 「奉献生活の年」について
 - 日本敗戦とキリスト教
 - 新福者・パウロ6世教皇の追憶
 - “キリストの神秘”に触れる典礼
 - 信仰をもってキリストに触れる
 - 教会の掟について
 - 第十戒(2)聖霊によって生きる
 - 第十戒(1)欲望の乱れ
 - 第九戒(2)心の浄化のための戦い
 - 第九戒(1)欲を制し、心を清める
 - 第八戒(5)真理、美、そして宗教芸術
 - 第八戒(4)マス・メディアの使命
 - 第八戒(3)情報伝達と愛の掟
 - 第八戒(2)真理について証しする
 - 第八戒(1)真理のうちに生きる
 - 第七戒(6)貧しい人々への愛
 - 第七戒(5)国際的な正義と連帯
 - 第七戒(4)経済活動と社会正義
 - 第七戒(3)教会の社会教説
 - 第七戒(2)人格とその財貨の尊重
 - 第七戒(1)世の富は誰のものか
 - 第六戒(4)結婚と子どもの出産
 - 第六戒(3)夫婦の愛と忠実
 - 第六戒(2)貞潔への招き
 - 第六戒(1)神は人を男と女に造られた
 - 第五戒(7)戦争を避けること
 - 第五戒(6)平和を守ること
 - 第五戒(5)人間性の尊重
 - 「信仰年」の終わりに
 - 第五戒(4)安楽死と自殺の問題
 - 第五戒(3)殺人の禁止について
 - 第五戒(2)正当防衛について
 - 第五戒(1)殺してはならない
 - 第四戒2:すべての権威は神から来る
 - 第四戒(1):“あなたの父母を敬え”
 - 第三戒:主と共に休息する日曜日
 - 第二戒:神の名によって生きる
 - 第一戒:三位一体の神を信じる
 - キリスト者と神の十戒
 - 教会の伝統の中の十戒
 - 人間の良心を補完する十戒の啓示
 - 神の十戒について≪総論≫その二
 - 神の十戒について≪総論≫その一
 - ローマ教皇とは
 - 教皇ベネディクト16世の退位に思う
 - 要理教育と要理書の編纂
 - 「信仰の遺産」とは何か
 - 失われた日曜日の再発見
 - 愛徳は、全使徒職のいわば魂
 - エクメニズムはプロテスタント化ではない
 - “教会の外に救いはない”について
 - 行いのない信仰は死んだもの
 - 王であるキリストの愛の支配
 - 第2バチカン公会議の権威について
 - 福音とは、世界を変える神の力
 - わが教会学校奮闘の記録
 - カトリック・アクションから信徒使徒職へ
 - 教会の社会教説とは何か
 - 聖母被昇天の祭日に思う
 - キリスト教的教育に関する宣言
 - 信徒使徒職の組織化
 - 福音宣教の最前線:小教区
 - 信徒固有の使命とは何か
 - 幼児洗礼の重要性とそのあり方
 - 「教会の象型」であるマリア
 - 第2バチカン公会議の典礼改革
 - 教会は「旅する神の民」
 - 公会議の「キリスト中心性」
 - 教会における信徒の品位と使命
 - 教会は「キリストの秘跡」
 - 教会における「司教職」について
 - 祈りに込められた「教会一致」への思い
 - キリスト教一致祈祷週間とその背景
 - 「信仰年」告示の意味を考える
 - 外に立って戸をたたくキリスト
 - 教会の典礼暦年について
 - 旧約聖書と新約聖書との関係
 - 初代主任司祭のころ
 - 海外で活動する日本人宣教者
 - 日本宣教の原点を考える
 - 新しい合本聖書の出版を祝して
 - 失われる結婚と家庭の霊性
 - 8月15日の三つの思い出
 - 要理教育は教会の主たる任務
 - キリスト教信仰の社会的展望
 - 「歴史のイエス」と「信仰のキリスト」
 - あらためて、キリスト教とは何か
 - “大いなる旅路の旅仲間”
 - “イエスは生きておられる”
 - 復活祭の日取りについて
 - キリスト教のシンボル・十字架の神秘
 - 四旬節・洗礼の準備と記念の季節
 - 教皇ヨハネ・パウロⅡ世の訪日30周年(3)
 - 教皇ヨハネ・パウロ2世の訪日30周年(2)
 - 教皇ヨハネ・パウロ2世の訪日30周年 (1)
 - 幼きイエズス修道会 来日のころ
 - キリストの洗礼の神秘
 - いのちを狙われた幼子イエス
 - クリスマスの話題・西暦紀元
 - 新福者ニューマンと信徒の地位・養成問題
 - 長崎最初の教会トードス・オス・サントス
 - 第七の願い “悪よりお救いください”
 - 第六の願い “わたしたちを誘惑に陥らせず”
 - 第五の願い “わたしたちの罪をおゆるしください、わたしたちも人を…”
 - 第四の願い “日ごとの糧を今日もお与えください"
 - 第三の願い “み心が天に行われる通り、地にも・・”
 - 第二の願い “み国が来ますように”
 - 第一の願い “み名が聖とされますように”
 - 「主の祈り」における七つの願い
 - 「天におられるわたしたちの父よ」
 - キリストが教えてくださった「主の祈り」
 - ミサをささげ続けて58年
 - 霊性を生きる宗教の本質は「祈り」
 - 教皇ベネディクト16世、英国公式訪問へ
 - 洗礼の秘跡は霊的な戦いの始まり
 - キリスト教における「死の神秘」
 - 最近の一連の書き込みについて
 - なぜ、この世に罪があるのか
 - 尊者・ピオ12世のことども
 - 活躍するカトリック信徒たち
 - 貧しい人々と連帯する教会
 - 受肉により、キリストはすべての人と結ばれた
 - メディア宣教に従事する修道会
 - 激増する中国のキリスト教徒
 - ハンセン病者の使徒・ダミアン神父の列聖
 - 教会は「救いの普遍的秘跡」
 - ファティマの聖母とロザリオ
 - 長崎純心聖母会の創立者たち
 - 聖職者の苗床―神学校は「教区の心臓」
 - 教会の成人年齢は18歳
 - 09カトリック平和旬間に
 - 教会学校の夏期キャンプ
 - 神の国を証する独身
 - 小教区の人口をどう数えるか
 - 悪霊と戦う司祭たち
 - 教会、神秘的なエバ
 - 「聖母月信心」の思い出
 - 罪の世のあがないのために
 - 終身助祭がいる教会
 - 善きサマリア人のたとえの解釈
 - ある高校の四旬節ミサの思い出から
 - 天国のイメージと個人主義
 - 2月11日は『世界病者の日』
 - 聖パウロの回心に想う
 - 『聖母像の到来』を読んで
 - 人々を教会に招くクリスマス
 - 鹿児島教区の恩人、結城了悟神父
 - 188日本人殉教者の列福
 - 福音宣教とマスメディア
 - シドッチ神父と長助・ハル夫婦
 - 日本人へのケリグマにおける神認識問題
 - 終戦63年の夏に思う
 - パウロにおける「福音の告知」と現代
 - レオ七右衛門、列福への歩み
 - 薩摩の殉教者とロザリオの聖母像
 - 「使徒継承の教会」を実感
 - ラジオから流れるロザリオの祈り
 - 司祭も司教も目的はミサ
 - ザビエル上陸記念碑の建設秘話
 - ザビエル上陸記念碑、建立から30年
 - イスラム教指導者、教皇と会談へ
 - 教会音楽との出会い(続々)
 - 教会音楽との出会い(続)
 - わが教会音楽との出会い
 - イエスの地、ナザレの出来事
 - これも一つの選択だが
 - 80回目の正月に思う
 - あるカナダ家族の大晦日
 - キリスト教の極致は見神
 - カトリック聖書週間に寄せて
 - 「鹿児島きぼうの電話」20周年
 - 信仰は理性を浄化する
 - 若返る観想修道院
 - 小教区とは何か
 - 離婚しない結婚の準備
 - わが思いは平和の思い
 - 原爆体験と長崎の祈り
 - キリスト教と諸宗教
 - 教皇庁大使の神宮訪問に因んで
 - 「白衣の天使」が「カラフル天使」に
 - 教皇、国連に招かれる
 - エロスと甘え―「求める愛」をめぐって―
 - 188殉教者の列福に思う
 - からだの復活と永遠のいのち
 - キリストの復活・新しい創造
 - 五島最古の江袋教会焼失
 - 昭和天皇とバチカン
 - 「聖マリア在俗会」のこと
 - 赤ちゃんポストに大賛成
 - あるシングルマザーのうぬぼれ
 - 日曜日はなぜ休日なのか
 - 教養と実学は教育の両輪
 - 日本の闇は深いか
 - さらば2006年
 - 「ゆるし」を体現した人の物語
 - 「美しい国」と「愛の文明」
 - シドッチ神父が日本史に与えた影響
 - シドッチ神父とキリシタン奪国論
 - 『大江戸曲者列伝』にシドッチ神父
 - 「マス・メディアは神の賜物」(教皇ピオ12世)
 
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