若者に人生の理想と使命感を

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若者に人生の理想と使命感を

カテゴリー カトリック時評 公開 [2015/04/10/ 00:00]

オーム真理教によって引き起こされた地下鉄サリン事件から20年ということで、さまざまな議論が巻き起こったが、中でも、なぜ知的レベルも高い若者たちが忌まわしい事件にかかわることになったのか、そのわけを問う声は大きい。

考えてみると、その理由が分かるような気がする。戦争のない平和がつづき、経済発展に伴う飽食の時代に、若い情熱を燃やすすべを知らない若者が、物質世界からの解放を約束するオーム真理教に救いを求めたとして不思議ではないのではないか。同じようなことがis(イスラム国)にあこがれる世界の若者にも言えるのではないか。貧しさと差別の中で鬱屈感にさいなまれる若者が解放を説く過激思想にひかれるのは当然ではないか。また、

このことは現代の多くの若者にもあてはめることができよう。若いエネルギーをぶっつける理想や目的がなく、何に情熱も燃やしたらよいか分からなければ、快楽に身を任せるか、反社会的な過激思想に飛びつくかないのではないか。

ところで、ギリシャ哲学の祖ともいわれるソクラテスは、博識をもって名声とカネ儲けを求めたソフィストと呼ばれる人々を非難し、「己を知れ」と叫んで「真理への愛」(哲学)と説いた。その流れを汲んでギリシャ哲学を完成したアリストテレスは、「人は生まれながらにして知ることを欲する」と言い、人間とは何か、世界とは何かと問い続けたが、最後には、「人間と世界の究極の真理は、人間理性を超えた神から来なければならない」と説いたと言われる。

アリストテレスの言葉を実体験した一人は5世紀の聖者アウグスチノ(354-429)であろう。

彼は、キリストによる神の啓示にいついて、「信じることとは、精神の眼を癒すことを目的にした薬であり、人間を叡智に導く真実でもある」という。こうして、神の言葉を信じて回心し、かの有名な告白録の冒頭で述べている。「あなたはわたしたちをあなたに向けてお造りになりました。わたしたちの心はあなたのうちに憩うまで安らぎを得ません」と。

事実、天の父なる神の英知と愛を余すところなく説いた主キリストの教えは、貧しさと圧政に苦しんでいたユダヤの人々の心とらえた。「イエスがこれらのことを語り終えると、群衆はその教えに驚いた。それは、自分たちの律法学者のようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」(マタイ7,28-29)。

聖霊降臨のあと、聖霊に照らされ強められた使徒ペトロが、キリストの復活を真実の証しとして宣教した説教は多くの人の心を引き付けた。キリストの福音に人生の理想を発見したのである。「彼の言葉を受け入れた人々は、洗礼を受けた。その日、三千人ほどの者が仲間に加えられた」(使徒行録2,41)のである。

その時以来、実に無数の人々がキリスト信仰の中に人生の理想と目的を見出してきたが、同じような現象が450年余り前、鹿児島でも見られた。当時の鹿児島の民衆は、道理を押して説明し、自らそれを生きる宣教師の姿を見て、キリスト教を「真の宗教」として喜びのうちに受け入れたのである。ザビエルは書簡の中で言う。もしも僧侶たちの妨げがなかったなら、鹿児島ではほとんどの人が信者になったに違いない」(書簡96,18)。

同じようなことは、その後のキリシタン時代にも言える。17世紀初めごろには、当時、300人ほどの大名のうち80人がキリシタン大名であったことからすれば、もしも江戸幕府の徹底した「キリシタン禁制」がなかったならば、日本はとうの昔にキリスト教国になっていたに違いないのである。

要するに、人間と世界の神秘を解き明かし、万物の創造者である神のうちにこそ真理があり、その真理をやさしく解き明かした救い主のキリストの福音は、人類を解放し、永遠の救いへの希望を与えるものであることは、21世紀の今日も変わることのない真理である。

残念ながら、近代合理主義は神の知恵を拒絶して人間理性の自律と力を過信し、科学技術の恩恵のもとに築かれるこの世の物質的幸せを絶対化する風潮の中では、いかなる人間も精神的な解放と希望を手にすることは不可能である。

21世紀に生きるわれわれは、この厳しい状況を理解し、新しい確固として信念に基づいて、端的に、そして大胆に、「若者に人生の理想と使命感」を与えるべく努力しなければならない。真理に基づく人生の理想と使命を自らの自由意思で選択し実践するか否かに「人間としての真価」が問われるからである。

そして、その真理はキリストの福音の中に存在するとわたしは確信する。キリストは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14,6)。