復活のキリスト、希望のしるし

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復活のキリスト、希望のしるし

カテゴリー カトリック時評 公開 [2015/03/25/ 00:00]

戦後70年の今年は、第2バチカン公会議閉幕50周年でもある。矛盾に満ちた現代世界を見るとき、50年前に教会が示した「世界分析」はいまもそのまま通じることを、次の文章を読んで感じた。少し長い引用になるが、読んでみよう。

――現代世界は強力でもあり無力でもあり、最善と最悪の可能性をもち、自由と屈従、愛と憎しみのいずれにも道が開かれている。しかも、人間が発明した力は、人間を苦しめることも人間に仕えることもでき、それを正しい方向に向けることは自分の責任であることを人間は自覚している。そこで、人間は自分がいったい何者であるかと自問する。

実のところ、現代世界が悩んでいる不均衡は、人間の心の中に根を張っているいっそう根本的な不均衡と関連がある。

事実、人間自身の中では多くの要素が互いに対立している。人間は、一方では被造物として多くの面において自己の限界を体験するが、他方では人間の欲求には限りがなく、いっそう高度の生命へ招かれていることを感じる。

人間は多くのものによって心をそそられるが、常にそのうちのあるものを選択せざるをえず、その他のものを放棄することを余儀なくされる。さらに、人間は弱く、罪びとであるため、しばしば望まないことを行い、望むことを行わないのである(ローマ7,14-19参照)。こうして、人間は自分自身の中に分裂を抱えていて、そのため社会の中にも多くの不和が生じるのである。

なるほど多くの人は、実際に唯物論的に生活しているので、このような劇的状態から目をそらしてしまい、また、他の多くの人々は貧困に押しつぶされているので、その状態について考える余裕がない。

さらに、多くの人は、今提示されているさまざまな世界観のうちのあるものに、心の平和を見いだしうると考えている。

またある人々は、人類の真の完全な解放を人間の努力だけに期待し、将来打ち立てられる全地に対する人間の支配が、人の心のすべての願いを満足させてくれると確信している。

他の人々は人生の意義について失望し、人間の実存それ自体には何の意味もないと考えて、自分の主体的な決定だけによって人生に意味をもたせようと試みる人々の勇敢さを称えている。

しかし、世界の今日の発展を前にして、次のような最も基本的な質問をする人、あるいは、その問題を以前よりも鋭く感じる人の数が日増しに増えている。人間とは何か。大きな進歩にもかかわらず今もなお残っている痛み、罪、死の意味は何か。大きな代償を払って獲得した、人間のさまざまな勝利は何のためになったのか。人間は社会に何をもたらすことができるのか。社会から何を期待できるのか。この地上の生活の後に何がくるのか。

教会は、人間がその最高の召命にこたえることができるよう、万人のために死んで復活したキリストがその霊を通して人間に光と力を与えることを信じ、また、人間が救われるべき名は、天の下にキリストの名のほかには与えられていないことを信じる。

また教会は、全人類史の鍵、中心、目的が、教会の主であり師であるキリストに見いだされることを信じる。

さらに教会は、あらゆる変革の中で、多くのものが変わらず、それらの究極的な基礎が、きのうもきょうも、また永遠に変わることのない方であるキリストであるということを信じる――(『現代世界憲章』9-10)。

キリストは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。生きていて、わたしを信じる者はみな、永遠に死ぬことはない」(ヨハネ11,25-26)。

つまり、キリストを信じる者は、この世の死をまぬがれることはできないが、キリストの死と復活の秘義にあずかって、キリストと共に永遠に生きることを希望し、確信しているのである。聖パウロは言う。「わたしたちは救われているのですが、まだ、希望している状態にあるのです」(ローマ8,24)。

ちなみに、今年の復活祭は4月5日である。



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