カトリック教会の平和運動
カテゴリー カトリック時評 公開 [2015/07/10/ 00:00]
戦後70年の今年、戦争と平和についての論議が盛んである。カトリック教会は「平和の福音」を生きて広める使命を持つ者として、この問題に無関心でいることはできない。すでに何度も平和の問題に触れてきたが、終戦記念日を間近に控えた今、もう一度教会の平和運動について考えることにした。
今から52年前、1963年に発布された教皇ヨハネ23世の不朽の回勅『地上の平和』(Pacem in terris)は、その冒頭で、「あらゆる時代の人々が切望してやまない地上の平和は、神の定めた秩序を全面的に尊重してはじめて、これを築き、固めることができる」と述べ、この秩序とは、万人の良心に響く「真理、正義、愛、自由」に基づく「倫理的秩序」であると説いている。
ヨハネ23世によって招集され指導された第2バチカン公会議は、「平和の本質」について述べる。
「平和は単なる戦争の不在でもなければ、敵対する力の均衡を保持することだけでもなく、独裁的な支配から生ずるものでもない。平和を正義の業と定義することは正しい。人間社会の創立者である神によって、その社会の中に刻み込まれ、常により完全な正義を求めて人間が実現していかなければならない秩序の実りが平和なのである。事実、人類の共通善は、その基本的意味づけにおいて永遠の法則によって支配されるものであるが、共通善が具体的に要求する事がらは、時の経過とともに絶えず変動するものである。平和は永久に獲得されたものではなく、絶えず建設してゆくべきものである。そのうえ人間の意志は弱く罪によって傷つけられているから、平和を獲得するためには各自が絶えず激情を押え、正当な権力を怠らないことが必要となる。
それだけでは充分ではない。個人の福祉の安全が確保され、人々が精神と才能の富を信頼をもって互いに自由に交流し合うのでなければ、地上に平和をもたらすことはできない。他人および他国民と彼らの品位とを尊重する確固たる意志、また兄弟愛の努力と実践は、平和の建設のために必要欠くべからざることである。こうして平和は愛の実りでもある。愛は正義がもたらすものを超える。
地上の平和は隣人に対する愛から生まれ、父なる神から来るキリストの平和の映像であり結実である。受肉された子は平和の君であり、みずから十字架によってすべての人を神に和解させ、一つの民、一つのからだのうちにすべての人の一致を再現し、ご自分の肉において憎しみを殺し、復活によって高く上げられ、愛の霊を人々の心に注いだ。
したがって、すべてのキリスト者は愛の中に真理を実行しながら、真に平和を愛する人々と一致して平和を求め、また打ち立てるよう強く求められている。
権利を擁護するにあたり暴力を放棄して、弱い者にも使うことのできる防衛手段にたよる人々を――それが他人または共同体の権利と義務を侵害することにならなければ――われわれは同じ精神に基づいて、称賛しないわけにはいかない。
人間が罪びとである限り、戦争の危険は人々を脅かし、それはキリストの再臨のときまで変わらないであろう。しかし、人々は愛によって結ばれる限り、罪に打ち勝ち、暴力にも打ち勝つであろう。こうして次の言葉が実現するのである。『彼らは剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すであろう。国々は互いに剣を取りあげず、もはや戦いのために訓練しない』(イザヤ2の4)」(現代世界憲章78)。
これらの文言によって示される教会の主張を要約すれば、ヨハネ23世が言われる平和の四つの柱、すなわち、「基礎としての真理、基準としての正義、動機としての愛、実行力としての自由」に帰着するのではないか。換言すれば、真の平和は、神聖にして不可侵の人間人格の尊厳に立ち返り、この超越的尊厳に根ざした基本的人権、すなわち共通善の擁護、あらゆる人間的な弱点や欲望から解放された真の兄弟愛に動かされて、真に人間的な方法、すなわち武力や経済力などによる力の支配ではなく、良心の決断と実行力をもって平和を追求する精神的な力によらなければならないということである。
そのため最大の手段は宗教であって、そのためには、平和の福音の宣教に邁進すると同時に、諸宗教間の対話と祈りを推進しなければならないだろう。諸宗教が目指す神の探求とその救済への願いは、真に人類の精神的革命を成し遂げて人心を刷新し、力に頼る国際的政治を内面から変えて、恒久的な平和の構築を可能にするであろう。