聖霊と教会の時代の到来
カテゴリー 折々の想い 公開 [2015/05/01/ 00:00]
主の復活祭(今年は4月5日)から聖霊降臨の主日(今年は5月24日)までの50日間は、「復活節」と称して、「一つの祝日」として、また、より適切には「大いなる主日」として、主の復活とその実りについて、歓喜に満ちて祝われる。
しかし今回は、典礼季節としてばかりでなく、救済史という歴史的な観点から、聖霊降臨の出来事が何であったかを考えてみたい。それは、人となった神の子キリストによる人類救済の大事業が完了して、救済史の次の段階、すなわち「聖霊と教会の時代」の到来を意味するのではないか、ということである。
そこで、聖霊に関する聖ヨハネ。パウロ2世教皇の回勅『聖霊――生命の与え主』(Dominum et Vivificantem)(1986年)を紐解いて見ると、そこには、「聖霊と教会の時代」という見出しがはっきりと記され、第2バチカン公会議の教えが次のように引用されている。
「父が子に地上で行うべきものとして委ねられたみわざ(ヨハネ17,4参照)が完成した後、ペンテコステの日に聖霊が遣わされた。それは、聖霊が教会をつねに聖となし、こうして信者がキリストを通して唯一の霊において父に近づけるようになるためであった(エフェゾ2,18参照)。この聖霊は、生命の霊、すなわち永遠の生命のためにほとばしり出る泉である(ヨハネ4,14;7,38-39参照)。この霊によって、父は罪のために死んでいる人々を生かし、遂には、彼らの死すべき肉体をキリストにおいて復活させられるのである(ローマ8,10-11参照)」(教会憲章4)。
そして教皇は、「第2バチカン公会議はこの言葉によって、聖霊降臨の日における教会の誕生を告げ知らせます」と言った後、さらに公会議を引用して言われる。「確かに聖霊は、キリストが栄光を受けられる前から、すでにこの世に働きかけておられた。しかし、聖霊降臨の日に、聖霊は弟子たちと共に永遠にとどまるために、弟子たちの上に降られたのである。そのとき教会は多くの人の前に公に表され、説教による他国民への福音の宣布が始められた(教会の宣教活動に関する教令4)。こうして、教会の時代は聖霊の到来によって始まりました」(回勅『聖霊―生命の与え主』25)。
キリストは、かつてフィリッポ・カイザリアで、信仰を告白したペトロに向かって言われた。「わたしもあなたに言う。あなたはペトロである。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てる。黄泉の国の門も、これに勝つことはできない」(マタイ16,18)。この言葉は、ペトロを頭とする使徒団を基礎として教会を創立するという意味であると、教会の理解してきた。この教会の上に公に聖霊を派遣することによって、「教会の時代」が始まったのである。
では、教会の時代とは何か。聖霊はなぜ教会に派遣されたのか。聖ヨハネ・パウロ2世は明言される。「聖霊は、イエスに続いて、そしてイエスのために来ます。それは、救いの良い知らせの業を、教会を通して世界の内に継続するためです」(回勅3)。これ以上の明瞭な言葉はない。聖霊は、キリストの救いの業を、教会を通して、地上に続けるために、教会に下ったのである。換言すれば、キリストは、聖霊に助けられた教会を通して、救いの業を続けられるということである。
ここで、イエスが聖霊を約束された時の言葉を思い出すのは有益であろう。例えば主は言われた。「弁護者、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊、その方がすべてのことをあなた方に教え、わたしが言ったことをすべて思い出させてくださる」(ヨハネ14,26)。使徒たちは主が行ったことや主が言われたことの本当の意味を、聖霊の助けによって理解し、これを教会づくりとその活動のために生かすことができた。使徒たちやその後継者ばかりでなく、信者一人ひとりもその心の奥深く、良心の中に聖霊の促しをいただき、信仰生活を正しく生きることができる。このように、教会全体が聖霊を通して主キリストと深く結ばれているのである。
聖霊と教会の時代は、キリスト再臨の日まで、いまも続いている。現代の教会は聖霊降臨後の教会であって、聖書時代そのものではない。ましてや単なる聖書の細切れの文字の時代ではない。まさに、生きた神の言葉、すなわち、救い主キリストご自身が聖霊を通して教会の中に生きておられ、そして教会は聖霊と共に、聖霊に照らされ、強められて、地球上のすべての時と所において、救いの業を継続するのである。教会の使命は神の言葉の追憶ではなく、神の生きた言葉を今に生き、今に実現すべき重大な使命を帯びているのである。
しかも、教会は一人ではない。共同体である。個人としてばかりでなく、共同体として、組織的に、多様な役目を分担し、一致協力して、キリストの御業に励むのである。そのためにも、聖霊の助けが常に保障されていることを忘れてはならない。