キリスト教の本質を問う

キリスト教の本質を問う

カテゴリー カトリック時評 公開 [2015/03/10/ 00:00]

教会はさる2月18日から四旬節が始まり、4月5日のキリストの復活祭の準備の季節を送る。つまり、この季節は、キリスト教信仰の本質を問い直し、キリスト教的生活の原点に戻る重要な季節である。では、キリスト教の本質とは何か。

キリスト教の本質は、その福音宣教の初めに宣言された次の言葉に表現されている。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1,15)。換言すれば、「遂に人類の救いに関する神の計画の実現のときが来た。回心して神に立ち返り、救いの良い知らせである神の国の福音、すなわち、キリストを信じなさい」ということになろうか。

端的に、「悔い改めてキリストを信じる」というこのキリスト教的信仰は、古来、使徒信条と呼ばれる信仰宣言の中に表明されてきた。これは洗礼の時に用いられる信仰宣言でもあって、次のとおりである。

天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、
三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
生者と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、
聖なる普遍の教会、
聖徒の交わり、
罪の赦し、
からだの復活、
永遠のいのちを信じます。アーメン。

簡潔に説明すると、こうなる。

まず、わたしたち人間を養子とするべく創造された天の父を信じるということ。

次に、罪に堕ちた人類を救うために、聖霊によってマリアから人性を受け、人類の罪を一身に背負って十字架につけられ、死んで復活された主イエス・キリストを信じること。

キリストによる人類贖いの実りとしての聖霊を信じること。

回心してキリストを信じ、その死と復活のいのちにあずかる洗礼を受けて普遍的教会の交わりに結ばれ、罪のゆるしを得てからだの復活を遂げ、永遠の幸せないのちに至ることを信じるということ。

キリスト教的信仰宣言の中で、重要なテーマは、罪によって神から離れ、人間もまた互いに分裂した人類が、キリストの救いにあずかって一つになるという教えである。信条の後半にある、「聖なる普遍の教会」や「聖徒の交わり」という語はそれを表しているが、人類救済の神のご計画について聖パウロが解説した次の下りは有名である。

「神は、わたしたちをあらゆる知恵と分別の恵みで溢れるばかりに満たし、み旨の神秘を悟らせて下さいました。それは時が満ちて、キリストにおいて実現されるようにと、あらかじめ計画しておられ、その善しとするところに従ってのことです。その神秘とは、天にあるもの、地にあるもの、すべてのものを、キリストを頭として一つに結び合わせるということです」(エフェゾ1,8-10)。これは、「キリストにおいてすべてを一つに集める」(Instaurare omnia in Christo)という有名な命題となった。

キリストご自身、神の似姿として造られた人類を一つの集めることをご自分の使命として示された。たとえば、最後の晩餐の後の教えの中で、「わたしは新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13,34)と命じられたが、相互愛の掟はキリスト者たちが愛の交わりと連帯によって一つになることを意味する。その後の司祭的祈祷においてキリストは弟子たちが「一つになるように」(ヨハネ17,11)、また信者たちが「一つになるように」(同17,22)と祈られた。

これより先、ヨハネ福音書は、イエスの評判を気にして祭司長たちやファリザイ派の人々が招集した最高法院で、その年の大祭司カヤファは預言して言った。「一人の人間が民に代わって死に、国民全体が滅びないほうが、あなた方にとって得策であることを、考えていない」(ヨハネ11.50)という言葉を解説して、「イエスが国民のために死ぬようになること、いや、国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるために死ぬことを、預言したのである」(同52)と書いている。

教会は四旬節の修業を通して共同体の刷新を成し遂げ、よろこびと希望のうちに、一つになって主の復活を祝い、愛の勝利を寿ぐことであろう。