「反知性主義」について

「反知性主義」について

カテゴリー カトリック時評 公開 [2015/06/10/ 00:00]

昨年あたりから、反知性主義という言葉が聞かれるようになったが、一体、それは、具体的には何を意味するのか。先日、新聞の広告欄で内田樹編『日本の反知性主義』の出版を知ったので買って読んでみたが、どうもはっきりしない。

ところが、5月3日付の毎日新聞に、沼野充義氏の書評が載ったので読んでみると、おおよそ次のような意味合いが記されていた。「最近、『反知性主義』という言葉が俄然注目を集めている。常識的に言えば、『知性を軽蔑したり、あざ笑ったりする態度』のことで」、「反知性主義者たちは『気後れ』というものを知らず、大胆に嘘をつく」。また、「反知性主義の世の中では誰も人間性の完成など目指さなくなり」、「自分にとって不都合なもの、認めたくないものを平然と『否認』する傾向だという」。

こうした批評を読むとき、反知性主義とは、まさに、キリスト教的考え方や生き方の反対の考え方生き方であるように思われてならない。そこで、『知性の尊さ,真理、英知』に関する第2バチカン公会議の教えを読んでみよう。

「人間は神の知恵の光にあずかるものであり、その知性によって全物質界を超越するという判断は正しい。諸世紀を通して人間は熱心に才能を働かせて、実証科学、技術、芸術を発展させた。現代においてはとりわけ物質界の研究と支配に関して、素晴らしい成果をおさめた。しかし人間は常にもっと深い真理を求めたし、また発見した。事実、人間の知恵は現象の観察だけに限定されているのではなく、たとえ罪の結果として、いくらか曇りがあり弱められているとしても、真の確信をもって実在の認識に到達することができる。

なお人間の知的本性は英知によって完成されることができるし、また完成されなければならない。英知は人間の精神を真と善を求め愛するように、やさしく引き寄せる。そして人間は英知に満たされて、見えるものを通して見えないものに導かれるのである。

人間は新しく発見するあらゆることを、もっと人間的なものにするために、現代は過去の時代にもまして、このような英知を必要としている。もっと英知のある人々が出て来るのでなければ、世界の将来は危険である。あお、経済的に貧しくても英知国に富んでいる国は、他の国に大きな福祉を提供することができることを指摘すべきである。

聖霊のたまものによって、信仰のうちに、人間は神の計画の秘義を観想し鑑賞するようになるのである」(現代世界憲章15)。

こんな言葉を読みながら、わたしは、大昔のギリシャ時代の話を思い出した。あの有名なソクラテスは、ソフィストと呼ばれる人たちが、真理を求めず、博識をひけらかして金儲けに走る学者を非難して、「真理への愛」を説いたという。真理への愛とは、すなわち哲学と日本語に訳されているが、大切なのは博識ではなく英知(叡智)であり、そのために知性を働かせて真理を追究せよとの教えである。そして人間の英知は、人間理性の真理探究の努力と同時に神からの超越的真理の啓示によって補完され、完成されるのである。

しかしながら、人類は常に真理を求め、英知を獲得しようと努力してきたのではない。むしろその反対ではなかろうか。あのおフランス革命の頃を思い出してみよう。革命の前提となった啓蒙思想は、暗黒の中世からの脱出を意味しようが、それはすなわち神からの脱出であり、神の支配を拒絶して「人間知性」のみによる地上の天国の建設を目指すものであった。あれから2世紀余、啓蒙思想は全世界に広がって一切の公生活から神的英知を締め出し、発達した科学・技術を駆使した大量生産と大量消費の物質文明は自然を破壊し、資源を食いつぶし、経済格差を広げて平和で公平な人間社会を阻害してしまった。脱成長が唱えられ、資本主義の終焉が議論され、格差是正の経済書がベストセラーになるというように、新しい社会体制への陣痛が始まったと言っても過言ではない。

人間は神の英知と愛によって創造された被造物である。したがって、人間の知性は神の知性の分与(participatio)であり、神の知恵に照らされて初めて人間の知性は完成し、輝くことになる。そうなってはじめて「恩寵は自然を破壊せず、かえってこれを完成する」という聖トマス・アクイナスの言葉が実現するのだ。そのことを、現代の世俗主義・反知性主義はわたしたちの教えているのではないか。