教会に戦争責任を問えるか

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教会に戦争責任を問えるか

カテゴリー 折々の想い 公開 [2015/06/01/ 00:00]

カトリック教会にいわゆる昭和戦争の責任を問えるか? 答えは否である。教会はあくまで宗教団体であって、政治団体ではないからである。「国権の発動」である戦争の全責任は国家権力にしかあり得ない。教会は戦争に協力するよう強要された被害者である。

しかし、教会の中には『カトリック教会の戦争責任』という本を書いた司祭がおり、当時の教会指導者の戦争責任を追及する者がいたりするのはなぜか。政治共同体と教会とを混同し、政教分離の大原則を知らないばかりか、当時の教会が置かれた社会的、政治的情勢を知らないからであろう。第2バチカン公会議は、「政治共同体と教会は、それぞれの分野において、互いに自主独立である」(現代世界憲章76)と教えており、古来、霊的共同体である教会は政治共同体から区別され、常に政治権力の支配下にあってプラス・マイナス両面の影響を強く受けてきたのである。

一方、社会における教会の固有の使命について、第2バチカン公会議は言う。「キリストがその教会に託した固有の使命は、政治・経済・社会の分野に属するものではない。キリストが教会に指定した目的は宗教の領域にある。・・・教会が現代社会に注入することのできる活力は、生活の中に実践される信仰と愛に見出されるのであって、単なる人間的手段を用いる外的な支配権の行使にあるのではない」(現代世界憲章42)。

したがって、戦時体制などの厳しい国家体制下において教会がなしうる貢献は極めて限定的なものになるのは当然であって、あの昭和戦争のころの日本のカトリック人口は10万足らずであり、政治を動かす力は無に等しかったのである。

そうした中で、当時の日本のカトリック教会の指導者たちは、政府や軍部からのさまざまな圧力や要求に悩まされながら、必死に信仰を守り、教会の子らや事業を擁護するために最大限の努力をしたのである。その様子は、当時、日本教会の中枢にあって奉仕した志村辰弥神父の手記、『教会秘話――太平洋戦争をめぐって』(1991・聖母の騎士社)の中に詳しく語られている。その中で、例えば昭和14年、文部省(当時)は宗教団体法の制定に伴い、公教要理の改訂を要望し、「国民の精神を迷わすような教えを説くことはゆるされない」と迫られたとき、土井大司教らは断固として文部省の強制を斥け、カトリックの信仰を守った(教会秘話31-33ページ参照)。

もし、仮に、当時の日本の教会が「戦争反対」に立ちあがり、本来の使命に反して日本の政治に介入したならば、即座に押しつぶされ、根絶やしにされたであろう。江戸幕府のキリシタン禁制の中で信教の自由を掲げて反抗したら、潜伏キリシタンの復活(信徒発見)はありえなかったであろう。忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐えて、政府の要求に最大限協力しながら教会を守り、政府の要求に従ってフィリピンやインドネシアに司教や神父たちを「宣撫班」として送り、占領地の教会とその信者たちを守ったこと(教会秘話137-142ページ参照)など、日本の教会が本来の宗教活動を懸命に続けた功績を見逃してならないだろう。

わたしは昭和3年の生まれで、昭和6年の満州事変から12年の支那事変、さらには昭和16年の英米への宣戦布告を経て昭和20年の敗戦まで、戦時体制の中で信仰教育を受け、諸秘跡にあずかり、神学校生活を過ごすことができた。わたしの村の大きな教会は、戦時中も、日曜日のミサはいつも超満員だった。戦時下にあっても、日本のカトリック教会は、あらゆる逆境に耐え、さまざまな制約の中で、本来の霊的使命を果たすために全力を尽くしたのである。過去二千年の歴史を見ても、教会はあらゆる地上的な条件の中でその使命を果たしてきた。豊かな時も貧しい時も、迫害のときにも平穏なときにも、聖霊の助けのもとにキリストの使命を引き継いできたのである。

ところで、70年前の敗戦によって軍事大国の夢が打ち砕かれた日本は、戦後、ゼロから出発して頑張った結果、世界第2位の経済大国の名をほしいままにしたが、今やその夢もあやしくなってきた。資本主義経済が終焉を迎え、財貨の奪い合いから分かち合いに転ずる脱成長の時代を迎えようとしている今、教会の出番はいっそう重要な時代となりつつある。今こそ教会は、倫理的秩序のもとに世界平和を樹立するため、あらためて平和の福音宣教に邁進し、内面から人類とその社会を変えるべく頑張らなければならない。

そのためにも、第2バチカン公会議の次の言葉を想起したい。「地上の国の生活の中に神定法が刻み込まれるようにすることは、正しく形成された良心をもつ信徒の務めである」(現代世界憲章43)。地上の国、すなわち政治・経済・社会の中に福音の精神を持ち込んでそこに神の国打ち立てて行く使命は、特に世俗に召された信徒たちの使徒的任務であることを肝に銘じたい。

 



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