司祭も司教も目的はミサ
叙階の秘跡によって立てられた司教・司祭の使命について、誤解されることも多いが、その究極の使命は「ミサを捧げること」と言ったら信じてもらえるだろうか。
「司祭の役務は聖体祭儀(感謝の祭儀またはミサ)を目指し、聖体祭儀において完成する」。第2バチカン公会議は『司祭の役務と生活に関する教令』の中でこう宣言する(第2項)。叙階の秘跡による祭司職(司教や司祭)の最終の目的はミサを捧げることにあるというわけである。だから、ミサを一回捧げるだけでも司祭になった意味があるといわれてきた。それほどミサは救いの普遍的秘跡である教会に不可欠であると同時に、そこに祭司職の存在理由がある。
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ザビエル上陸記念碑の建設秘話
前回、鹿児島市新祇園の洲にあるザビエル上陸記念碑の除幕30周年について語ったが、ことのついでに、記念碑をめぐる幾つかの思い出を記してみる。
まず、記念碑の製作者は当時の東京芸大ルイ・フランセン神父である。神父は長崎時代に知り合ったわたしの友人で、淳心会に所属するベルギー人宣教師であった。1975年のある日、わたしは東京世田谷の松原教会に神父のアトリエを訪ね、ザビエル上陸記念碑について話し、協力を求めた。彼は二つ返事で承諾し、すぐに記念碑の構図のスケッチを始め、潮風をかぶる場所だから材質は陶製レリーフにしたいとも語った。彼はJR山手線田町駅に西郷隆盛と勝海舟会見の図を陶製レリーフで仕上げたばかりであった。わたしは彼の意見にすぐに賛成した。出来上がった記念碑の構図はあのスケッチそのままで、鹿児島の土地を表す土色の信楽焼である。このHP冒頭の写真がそれである。
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ザビエル上陸記念碑、建立から30年
鹿児島市新祇園の洲にある「ザビエル上陸記念碑」(写真)の除幕から今年は30年になる。除幕式は1978年4月23日、折からの桜島の降灰を含んだ豪雨と強風の中で行われた。
それは、万里の波濤を越えてやってきたザビエル一行の苦難を想起させるものであった。1549年6月24日、洗礼者聖ヨハネの誕生の祝日にマラッカを出帆したザビエル一行は、8月15日、聖母被昇天の祝日に鹿児島に到着するのであるが、52日にわたる危険な海路は、アバン船長の娘が嵐の海に飲まれて死に、船長自身も鹿児島滞在中に死亡しているように、まさに命がけの旅であった。
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イスラム教指導者、教皇と会談へ
去る3月6日、南日本新聞朝刊にローマ発の小さなニュースが載った。
「英国、ヨルダン、トルコなどのイスラム教指導者らが5日、ローマ法王庁(バチカン)でバチカン高官と四日に引き続き会談、指導者側代表が十一月に法王ベネディクト十六世と会談することで合意した。バチカンが発表した。キリスト教とイスラム教の融和をアピールするのが狙い。バチカン当局者は、「歴史的」な会談になると評価した。十一月四日から六日までローマで、双方の対話の場となる「カトリック・イスラム教徒フォーラム」が開かれる予定で、期間中に複数のイスラム教指導者の代表が法王と会談する。代表の人選は今後、イスラム教指導者側が進めると見られる」。
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教会音楽との出会い(続々)
6)カナダから帰国したわたしは長崎司教館勤務となったが、当時まだカテドラルであった大浦天主堂の主任司祭の依頼で聖歌隊の世話を引き受けることになった。聖歌隊には若い男女のほか女子修道会の志願たちも加わっており、日曜日のミサと聖体賛美式のほか、大祝日には司教荘厳ミサにも奉仕しなければならなかった。あれから40年ばかりたったある日、「元大浦聖歌隊の集い」を呼びかける者があり、10人あまりが長崎に集まったのだが、いいおじさんおばさんたちに混じって幾人かの修道女の姿もあった。わたしはすっかり忘れていたのに、みんなは覚えていてくれたのだった。
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