「現代世界憲章」発布50周年

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「現代世界憲章」発布50周年

カテゴリー カトリック時評 公開 [2015/07/25/ 00:00]

教会の刷新と現代化を目的に、1962年10月に始まった第2バチカン公会議は、4年後の1965年12月に閉会した。公会議が発した16の公文書のうち、最後に出されたのは『現代世界における教会に関する司牧憲章』、通称『現代世界憲章』(Gaudium et Spes)である。

『教会憲章』によって教会自体を吟味した公会議は『現代世界憲章』によって教会の外に目を向け、現代世界に対する教会の使命と責任を明らかにする。ここにいう「世界」とは人類のことであり、現代世界とは現代に生きる人々のことである。憲章は、世界に派遣された教会の使命の対象が『人間』であることを明らかにする。

「今日人類は、自分が発見した事柄と自分の力に感動している。しかし、世界の発展の現状について、全宇宙における人間の位置と役割について、個人のおよび集団の努力の意義について、さらに事物と人間の究極目的について、しばしば疑問に悩まされる。したがって公会議は、キリストによって集められた神の民全体の信仰の証人および解説者として、これら種々の問題について人類と話し合い、福音の光に照らしてそれを解明し、聖霊に導かれる教会が、その創立者から授けられた救いの力を人類のために提供することは、神の民が属している人類全家族に対する連帯感と尊敬と愛とを最も雄弁に証明することになると考える。実際、人間こそ救うべきであり、人間社会こそ刷新すべきである。人間、すなわち統一であり全体である人間、肉体と霊魂、心と良心、思想と意志を備えた人間こそ、われわれの全叙述の中心点である」(現代世界憲章3)。

さらに、憲章は人間に対する教会の使命の中心について言明する。

「それゆえ、この公会議は人間の崇高な召命を宣言し、人間の中に神的な種子が置かれていることを肯定し、人間のこの召命に相応するすべての人の兄弟的一致を確立するために、教会の誠意に満ちた協力を人類にささげる。教会は決して地上的野心によって動かされているのではない。教会の望むことはただ一つ、すなわち、真理を証明するために、裁くためではなく救うために、奉仕されるためではなく奉仕するために、この世に来たキリスト自身の仕事を、弁護者である霊の導きのもとに続けることである」(同上)。

現代世界憲章のこうした序文をじっくり読むと、世界中のすべての、そして一人ひとりの人間に対する教会の熱い心が伝わってくる。その愛の心は、ヨハネ福音書が伝える父なる神の愛に由来する。ニコデモというユダヤ人の議員との対話の中で主は言われる。

「実に、神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命をえるためである」」(ヨハネ3,16)。

『この世』とは、人類一人ひとりのことである。神の子というご自分の栄光を捨てて人間となったキリストは、父なる神を啓示することによって人間と世界に関する真理、すなわち、その究極の意味と目的を明らかにする。憲章は言う。「キリストは、地位置とその愛の秘義を啓示することによって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする」(n.22)。教会は、このキリストの使命を率い継ぎ、永続させるために、人々に遣わされた。「わたしは天においても地においても、すべての権能が与えられている。それ故、あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け、わたしがあなた方に命じたことを、すべて守るように教えなさい。わたしは代の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」(マタイ28,18-20)。

したがって、教会の使命は今日も続いている。公会議は現代世界憲章によってこのことを明らかにしている。すなわち、序文で、現代の人々の実際の姿を想起し、何よりも、人間とは何か、人間はどこから来てどこに向かうのか、を明らかにするとともに、人生の究極の目的を達成するためのただ一つの道であるキリストを明示するという、教会の使命を宣言する。公会議は、現代世界憲章において、具体的な一人ひとりの人間に焦点を当てているのである。

教会の使命はわたしたち一人一人の信者の使命であり、責任である。発布50周年のこの記念の年に、わたしたちは現代世界憲章をあらためてじっくり読み、その実施のために一肌もふた肌も脱ぐ覚悟を新たにしなければならない。そして、現代社会に対する教会の使命は、政治や経済、戦争や平和など、大きくて直接手の届かない問題ばかりではなく、わたしたちの日常の生活が行われる地域社会の中で、毎日出会う一人ひとりの隣人とのかかわりの中で実行しなければならない使命であることを忘れてはならない。そのことの具体的な自覚が、今、求められている。