「全キリスト」とは
カテゴリー 折々の想い 公開 [2015/07/01/ 00:00]
「全キリスト」という言葉をご存じだろうか。現在、この言葉はあまり使用されないが、「キリストと教会」の神秘、すなわち、わたしたちとキリストの一体性の神秘を表す極めて貴重な言葉であるから、その意味するところを考えてみよう。
「全キリスト」はラテン語のTotus Christusの日本語訳であって、英語ではThe whole Christ、仏語ではLe Christ total であるが、時には「全きキリスト」とも訳される。「全キリスト」という言葉の起源は聖アウグスチヌスにあるとされ、聖教皇ヨハネ・パウロ2世は、次のように書いている。
「キリストは、一方では人々の唯一の仲介者、あがない主であり、また教会の頭でもあります。キリストと教会は単一的な神秘的ペルソナ、全きキリスト(Totus Christus)です。彼(アウグスチヌス)は次のように強調して書いています。『わたしたちはキリストとなったのである。彼が頭であれば、わたしたちは肢体であり、彼とわたしたちとは「全き一人の人」なのである』(ヨハネ福音書講解説教)。この全きキリスト(Totus Christus)の教義は、ヒッポの司教(アウグスチヌス)のもっとも重大な教えの一つで、彼の教会論のもっとも実りあるテーマです」(『ヒッポのアウグスチヌス』山口正美訳)。
要するに、御父に遣わされてこの世に来られたイエス・キリストは、マリアの胎内で「人間性」を採られた。神であると同時に人間でもあるキリストは、「神と人との間の唯一の仲介者」(1テモテ2,5)であり、十字架上で人類の罪をあがない、洗礼を受けて「主の死と復活の秘義」にあずかり、ご自分に結ばれた人々の集団である教会の頭となり、教会をその神秘的なからだとしたのである。頭なくしてからだなく、からだなくして頭がないように、頭であるキリストと体である教会は「もう一人のキリストの神秘的なペルソナ」として一体であり、この一体性をアウグスチヌスは「全キリスト」と呼んだのである。
キリストとその教会との一体性は、ぶどうの木にたとえられた主の言葉に明らかであるが、それは同時に、サウロ(パウロ)の回心の出来事の中に象徴的に表れる。主の弟子たち、すなわちキリスト信者たちを捕えるためにダマスコに向かうパウロが聞いた言葉は、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」(使徒言行録9,4)であった。サウロが「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、その声は「わたしはお前が迫害しているイエスである」と答えたのである。つまり、キリストとその信者とは同一の人なのである。こうしてパウロは、「生きているのはもはやわたしではなく、キリストこそわたしのうちに生きているのである」(ガラテア2,20)ということができたのである。
聖書と聖伝に基づき、第2バチカン公会議の教えに従って編まれた新しいカトリック要理書『カトリック教会のカテキズム』は、以上の教えを要約して、「教会をからだと見なすたとえは、教会とキリストとの間に存在する親密なきずなに光を投じる。教会はただキリストの周りに(autour de Lui)集められたのではなく、キリストのうちに(en Lui)、そのからだにおいて一つにされたのである」(n.789)と教え、また、「教会は頭であるキリストとともに“独特の神秘的ペルソナ”(教皇ピオ12世回勅『キリストの神秘体』)として形成された」(n.1119)と述べている。
また、n.795では、全キリストに言及するとともに、聖人たちの言葉を引用する。
「それ故、キリストと教会は、全キリスト(le Christ total―Christus totus)である。教会はキリストと一つなのである。聖人たちはこの一致を生き生きと意識している。
『だから褒め歌い、そして感謝しましょう。わたしたちはただキリスト者になっただけではなく、キリスト自身になったのです。兄弟たちよ、神がわたしたちにキリストを頭として与えてくださった恵みが分かりますか。感嘆し、喜び踊りなさい。わたしたちはキリストになったのです。事実、彼は頭であり、わたしたちは肢体なのですから、人類全体がキリストであり、わたしたちなのです。…キリストの充満、それが頭と肢体なのです。頭と肢体、それがキリストと教会なのです』(聖アウグスチヌス)。
『わたしたちの贖い主は、ご自分のものとされた教会を、ただ一つの、同一の人格として示されました』(聖大グレゴリオ)。
『頭と肢体、それは、いわば神秘的な一つの同じ人格(ペルソナ)です』(聖トマス・アクイナス)。
聖女ジャンヌ・ダルクの裁判官への一言は、聖なる博士たちの信仰と信者たちの常識を要約している。『わたしの考えでは、イエス・キリストと教会、それは全体であり、一つであって、異議の余地はないはずです』(聖女ジャンヌ・ダルク)。
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洗礼・堅信・聖体という入信の3秘跡によってキリスト者となった者は、個性を持つ多数でありながら、一つのキリストの神秘体に結ばれ、「もう一人のキリスト」(Alter Christus)として、頭である神の子のいのちをともに生きている。このキリストにおける一致の神秘を生きているという「信仰感覚」(Sensus Fidei) と「教会感覚」(Sensus Ecclesiae)を自覚し、強めていくことが大事である。聖大レオ教皇は言った。「キリスト者よ、己が尊厳を自覚せよ」。