“神のうちに生き、動き、存在する”

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > “神のうちに生き、動き、存在する”

“神のうちに生き、動き、存在する”

カテゴリー カトリック時評 公開 [2015/06/25/ 00:00]

「わたしたちは神のうちに生き、動き、存在する」(使徒言行録17,28)という聖パウロの宣言は、もともとキリストを知らないギリシャの前6世紀の詩人エピメニデスの言葉であったというから、すべての人間が感じている真理ではないかと思う。

聖パウロは、ここにいう神とは、偶像の神々ではなく、唯一の神であることを強調して言う。「この世界にはどのような偶像の神も、また、唯一の神以外のどのような神も存在しないことを、わたしたちは承知しています。さながら、多くの神、多くの主が存在すると思われているように、たとえ、天にであれ、地にであれ、神々と呼ばれているものがあるにしても、わたしたちには、万物の源、父である唯一の神だけがおられ、わたしたちもこの神へと向かっています。また、わたしたちには、万物を存在するものとされた唯一の主イエス・キリストがおられ、わたしたちもこの主によって存在しているのです」(1コリント8,4-6)。

教皇ヨハネ・パウロ2世は、聖パウロのこの言葉を解説して言われる。「唯一の神と唯一の主は、一般に受け入れられている多くの『神々』や多くの『主』に対立するものとして主張されています。パウロは、当時の宗教事情のなかでの多神論に反対し、キリスト教信仰の特徴である『唯一の神と、神から遣わされた唯一の主を信じること』を強調しています(回勅『救い主の使命』5)。

しかし、これらの言葉は、諸宗教を非難してこれを排斥するためではなく、真の神に至る道としてこれを尊重しているのである。聖パウロは、例えばリストラでの説教でこう述べる。「あなた方が、生ける神に立ち返るようにと、福音を宣べ伝えているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中のすべてのものをお造りになった方です。神は、過ぎ去った時代には、すべての国の人々が、それぞれ自分の道を歩むままにしておかれました。しかし、神は、ご自身を証ししないでおられたのではありません。神は恵みをくださり、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物を施して、あなた方を喜びで満たしておられるのです」(使徒言行録14,15-17)。

また、アレオパゴスでの説教でこう述べる。「アテネの人々よ、わたしはあらゆる点で、あなた方を宗教心に富んでいる方々だと見ております。実は、わたしは、あなた方の拝むさまざまな物を、つらつら眺めながら歩いていると、『知られざる神に』と刻まれた祭壇さえあるのを見つけました。わたしはあなた方が知らずに拝んでいるものを、今、あなた方に告げ知らせましょう。この世界と、その中の万物をお造りになった神は、天と地の主ですから、人間の手で造られた宮殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人間の手によって仕えられる必要もありません。神はすべての人々に、命と息と万物を与えてくださった方だからです。神は一人の人から、あらゆる民族を興し、地上にあまねく住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境をお定めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、もし人が探し求めさえすれば、神を見出すでしょう。事実、神はわたしたち一人ひとりから遠く離れてはおられません。

『わたしたちは神のうちに生き、動き、存在する』

のです。あなた方のある詩人たちも、『わたしたちもまた、その子孫である』と言っているとおりです。このように、わたしたちは神の子孫ですから、神なるものを、人間の技術や思惑によって造った、金や銀や石などの偶像と同じもの考えてはなりません。さて、神は、このような無知の時代を見逃してこられましたが、今は、どこにいる人でもみな悔い改めるようにと、命じておられます。神は、お定めになった一人の方によって、義をもってこの世を裁くための日をお決めになりました。その方を死者の中から復活させることによって、すべての人にこのことの確証を与えてくださったのです」(使徒言行録17,22-31)。

教皇ヨハネ・パウロ2世は、次のように解説します。「パウロはこれらの説教において、いろいろな人々の文化と宗教の価値との『対話』に入ります。宇宙的宗教を信じていたリカオニアの人々に対しては、宇宙に関係した宗教体験を語ります。ギリシャ人とは哲学を論じ、ギリシャ人の詩を引用します。パウロが示したいと望んでいる神は、すでに彼らの生活の中に存在しているのです。実際、この神は彼らを創造し、人々と歴史を不思議な力で導いています。しかし、もし彼らが真の神を認めようとするなら、彼らは自分で作りあげた偽りの神々を捨て、神が彼らの無知を癒し、彼らの心のあこがれを満たすために遣わされた方に心を開かなければなりません。これらは『インカルチュレーション』の模範となる説教です」(回勅『救い主の使命』25)。

わが日本でも、インカルチュレーションが進むことを願わずにはいられない。