キリストの復活の意味と力

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > キリストの復活の意味と力

キリストの復活の意味と力

カテゴリー 折々の想い 公開 [2015/04/15/ 00:00]

「キリストは、聖書にしるされているとおり、わたしたちの罪のために死んだ。また聖書にしるされているとおり、葬られ、三日目に復活した。ケファに現れ、次に十二使徒に現れた」(1コリント15,3b-5)。

教会は使徒信条において、「主は、死んで三日目に死者のうちから復活した」宣言している。そして、『カトリック教会のカテキズム』は、この「イエスの復活は、キリストにおけるわたしたちの信仰の頂点である」(n.638)と明言し、「救済史における主の復活の意味と効力」について次のように教えている。

「復活は、何よりもまず、キリストご自身が行い、そして教えられたすべてのことの確証である。すべての真理は、たとえ人間の精神には到底達することができないものであったとしても、もしもキリストが復活することによって、約束されていたその神的権威について決定的な証明を与えたとしたら、その正当性を見出すのである」(n.651)。

つまり、キリストの復活は、キリストが行いかつ教えたすべての真理が真実であることを確証したのである。なぜなら、キリストの死からの復活は、自然の法則ではありえない神的出来事であるから、これ以上の証明はあり得ないのである。したがって、主なるキリストの十字架の死に出会って意気消沈し、やっぱりだめだったかと失望した弟子たちが元気を取り戻し、信仰を取り戻したことが理解できる。まさにキリスト教信仰はキリストの復活をよりどころとしている。だから聖パウロは言う。「もしキリストが復活しなかったとしたら、わたしたちの宣教も無意味なものであり、あなた方の信仰も無意味なものとなるでしょう」(1コリント15,14)。

次に、『カトリック教会のカテキズム』は、キリストの復活が一切の神の約束の成就であったと教える。「キリストの復活は、旧約聖書の約束と地上生活をしておられたイエスご自身の約束の成就である。『聖書にしるされているとおり』(selon les Ecritures)という表現はキリストの復活が予言を成就したということを示している」(n.652)。

ここに言う旧約聖書の予言の成就とは、たとえばルカ福音書を見ると、「“メシアは必ずこのような苦しみを受け、その栄光に入るはずではなかったか”。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたってご自分について書かれていることを、二人に説明された」(ルカ24,26-27)とある。ご自身予告については、例えばマタイ福音書にはこう書いてある。「その方は、ここにはおられない。かねて仰せになったとおり、復活された」(マタイ28,6)。

キリストの復活は、また、イエスの神性を確証する。「イエスの神性についての真理がその復活によって確証された。イエスは仰せになった。“あなた方は人の子を上げたときはじめて、『わたしはある』ということを悟る”(ヨハネ8,28)。十字架につけられた方の復活は、かれが真に“わたしはある“方であり、神の子であり、神自身であることを証明した。…キリストの復活は、神の子の受肉の神秘に緊密に結ばれている。これは、神の永遠のご計画の成就である」(n.653)。

「過越の神秘には二つの面がある。すなわち、わたしたちは、その死によって罪から解放され、その復活によって新しいいのちへの道が開かれる。新しい命とは、まず義化であって、これは、 “キリストが死者の中から復活させられたように、わたしたちもまた、新しいいのちに歩むために”(ローマ6,4)、わたしたちを神の恩恵の中に連れ戻すのである。新しいいのちは、神との養子縁組を完成させる。なぜなら、人間はキリストの兄弟となるからである」(n.654)。

「最後に、キリストの復活――そして復活したキリストご自身――は、わたしたちの来るべき復活の原理であり源泉である。“キリストは死者の中から復活され、眠りに就いた人たちの初穂となられました。…アダムに連なってすべての人が死ぬのと同じように、また、キリストに連なってすべての人はいのちあるものとされるのです”(1コリント15,20-22)」(n.655)。

世の中には、宗教の教祖とか開祖とか言う人々は大勢いるが、死者の中からの復活によって自分の教えの真実性を証明したのはイエス・キリストただお一人である。このことを忘れないようにしよう。