人間の召命と使命における責任について
カテゴリー カトリック時評 公開 [2010/02/01/ 00:00]
今年も成人式において若者たちの抱負が多様に語られたが、中には「責任ある社会人として生きていきたい」といった正統派の殊勝な意見もあった。しかし、若者を「助けて」と言えない孤立に追い込む「自己責任」や、政敵の失脚を願う手段としか思えない「説明責任」など、わけのわからない責任論が横行する世の中で、若者たちは真に責任ある社会人に育っていくだろうか。
そもそも責任とは「果たすべき責務」の意味だが、知恵と自由を備えた責任主体である人間の行為に責任が伴うことは当然である。しかし、個人主義社会の今日、はたしてどのように責任ということを理解しているのだろうか。責任のことを英語ではResponsibility と言うが、この語はresponse(応答)とability(能力)の組み合わせで、直訳すれば「応答能力」のことだと言われる。つまり、責任とは自分に対して取るものではなく、わたしに呼び掛け、わたしを招く他者に対して取るものであることが明らかである。そしてこの他者とは、人間を創造し、これを生かしてくださる神、つまり、人間に召命(vocatio)と使命(missio)を与えた方である違いない。ヨハネ・パウロ2世は言う。「神は、男女の人間性に召命(vocatio)を与え、愛と一致のための能力と責任を与えました。愛は、すべての人間の生まれながらの根本召命です」(使徒的勧告「Familiaris Consortio」、邦訳は『家庭―愛といのちのきずな』n.11)。
さて、次なる問題は、人間はどのようにして神の召命を知り、おのが責任(使命)を知ることができるのか、である。そしてこれには二つの方法、すなわち人間理性の働きと神の啓示によって知ることができると教会は主張する。
まず、人間に召命を与えた神は、人間本性にご自分の意思、つまり法を刻み込まれた。そして人間理性は自然世界を通して神の存在を認め、「神からの心の声」とも呼ばれる良心の声を聞いて神からの召命と使命を悟ることができる。こうして哲学や宗教の発達を促し、教育を通してこれを親から子へ、そして子から孫へと継承していく。こうして、たとえ不十分でも高度な真理を、すなわち、神の存在と主宰、人間の召命と使命を学び、文化を築いてきた。
しかし、人間理性には真理認識において限界があり、原罪に傷つき、世の富や快楽の誘惑により人間は迷いや虚偽にも陥る。そこで神は人間理性の限界を補い、これを完成に導くために、人類の歴史に介入して理性を照らし、隠されていた真理を啓示して人間と世界の闇を払われた。聖書は言う。「神は、昔、預言者たちを通して、いろいろな時に、いろいろな方法で先祖たちに語られたが、御子を通してわたしたちに語られました」(ヘブライ1,1-2)。
第2バチカン公会議はこのあたりの事情を解説し、「実際、人間の秘義は肉となられた御言葉の秘義においてでなければほんとうに明らかにはならない」として述べる。「事実、最初の人間アダムは未来の人間すなわち主キリストの予型であった。最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義を啓示することによって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする」(現代世界憲章22)。
キリストは人間の高貴な召命を啓示するばかりではない。自ら人間の高貴な召命と使命を生きてその責任を完遂し、「真の人間」であるばかりでなく「完全な人間」としてすべての人間のモデルかつ「道」(ヨハネ14,6参照)となったのである。公会議は言う。「(キリスト)ご自身は完全な人間であり、最初の罪以来ゆがめられていた神の似姿をアダムの子らに復旧した。人間性はキリストの中に取り上げられたのであって消滅したのではないから、このこと自体によって、われわれにおいても人間性は崇高な品位にまで高められたのである」(同上)。
すでに明らかなように、わたしたちは、どのような立場や境遇にあろうとも、回心と信仰をもってキリストに結ばれ、そのあとに従って生きることによって、人間としての高貴な召命にこたえて使命を果たし、責任を全うできると言わなければならない。
もう30年あまりも前のことになるが、鹿児島ラサールのある先生が「近頃の学生は使命感(sense of mission)という言葉が嫌いだ」と語ったことがある。戦後の神不在の個人主義教育の成果であろう。今はもっと深刻であるかもしれない。成人式で暴れる若者はその象徴であろう。だが、神の英知と愛によって無から造られ、生かされていながら、自分の力で生きているかのように錯覚して、勝手に生きていきますでは、責任放棄もよいところであろう。