「聖マリア在俗会」のこと

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「聖マリア在俗会」のこと

カテゴリー 折々の想い 公開 [2007/02/27/ 00:00]

ゲマインダー神父

ゲマインダー神父

 先日、聖マリア在俗会(註1)九州地区会員の一日黙想会に招かれてお手伝いをしてきた。17人の集まりであったが、彼女たちと一泊二日のお付き合いの中で、あらためて在俗会なるものに触れ、その変わった生き方について考えさせられた。

 彼女たちは、結婚を自発的に断念して独身生活を選んだ。つまり、結婚よりもはるかに優れた価値のために一生を捧げるためである。「結婚よりもはるかに優れた価値」とは「神の国」のことである(註2)。

神の国とは、キリストの身においてこの世に始められた国で、いわば人間と世界の最終目的である究極の愛の国のことである。神の国はすでに地上にあるが、地上の国とは異なる。キリストは言う、「わたしが治める国は、この世のものではない」(ヨハネ18,3)。目に見えない霊的な国であり、世界の終わりに、キリストが再臨してすべての人間が復活するとき完成され、「娶ることも嫁ぐこともない」(マタイ22,30)、永遠の至福の国がはじまる。そこでは愛だけが支配する。

 彼女たちは、神の国を信じ、神の国のために、また、完成した神の国を先取りして独身生活を守り、徹底してキリストの愛を生きるために、福音的勧告を受け入れ、清貧、独身(貞潔)、従順の三つの誓願を立てている。神の国という、究極の愛のために自分のすべてを、すなわち身も心もすべて捧げ尽すためである。それゆえに、彼女らは正当に「キリストの花嫁」と呼ばれる。彼女らは法的には信徒の身分であるが、以上の点では、修道者と同じであるといってよい。

修道女と違うのは、在俗会の名が示すとおり、修道院における共同生活ではなく、単独で、世俗の中で、世間の人々と同じように、それぞれの職業に従事しながら生活を送ることである。これが彼女たちのもう一つの特徴である。

以上のような在俗会という奉献生活の形態が公式に教会で認められたのは1947年であって、その歴史は新しい。世の中が世俗化していく中、一般の人々と同じ生活形態の中で、より身近なキリストとその国の証の必要性が出てきたための神の摂理であろう。しかし、その使命は極めて厳しいものであると思う。修道者は修道院の中の共同生活によって守られるが、在俗者にはそれがないからである。それだけに、修道者にはるかに勝る深くて強い霊性が求められよう。だから、あえてこの難しい証の道を選び、挑戦する彼女たちの信念と勇気に感動すら覚える。かつて弟子たちを宣教に派遣するに当たって主は言われた。「今、わたしはあなたたちを遣わすが、それはあたかも羊を狼の中に送り入れるようなものである。だから、へびのように賢く、鳩のようにすなおになりなさい」(マタイ10,16)。

愛が乱れ、結婚の制度もゆれる中、泥沼に咲く一輪の蓮花のように、健気にキリストの愛を生きて証しする在俗会の存在は貴重であり、今後一層の健闘を祈りたい。

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註1 (1)聖マリア在俗会は「聖母カテキスタ会」として1954年、神言会司祭ゲオルグ・ゲマインダー神父によって名古屋で創立された。昨2006年12月25日、「聖マリア在俗会」と会の名称を変えた。会員数は2004年現在で187人となっている。

(2)在俗会とは新教会法第710条によれば次のとおり。「在俗会は奉献生活の会であって、そこにおいてキリスト信者は世俗の中で生活しつつ、愛の完成を志向し、特に内部からこの世の聖化に貢献するよう努めるものである」。

(3)日本国内の在俗会は、2002年の統計で、男子1、女子8、会員数279である。

註2 結婚と独身について、ヨハネ・パウロ2世は次のように教えている。

「キリスト教の啓示は、人間の愛の召命の全体を実現するために二つの道を認めています。それは結婚と神の国のための独身です」(使徒的勧告『家庭―愛といのちのきずな』11)。