188殉教者の列福に思う
カテゴリー 折々の想い 公開 [2007/04/21/ 00:00]
殉教者とは迫害によって処刑されたキリスト者のことである。ここで迫害とは単なる苦しみと違い、神の計画に逆らい、信者を神から引き離すために加えられる責め苦で、死刑はその頂点である。迫害は偏見やいじめなど民間からも来るが、主たるものは権力による弾圧である。キリストはその弟子たちが迫害に会うことを繰り返し予告し(各福音書)、たとえば次のように言われた。
「今、わたしはあなたたちを遣わすが、それはあたかも羊を狼の中に送り入れるようなものである。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。人々はあなたたちを地方法院に引渡し、彼らの会堂で鞭打つであろう。また、わたしのことで、総督や王たちの前に連れ出されるであろう。それは、彼らと異邦人に対して、証をするためである。しかし、あなたたちは、引き渡されるときに、何を言おうかと心配するな。言うべきことは、そのときあなたたちに授けられるからである。語るのはあなたたちではなく、あなたたちの父の霊があなたたちを通して語るのである」(マタイ10,16-20)。
キリストの予告通り、日本の教会も迫害の歴史である。特に国家権力による弾圧は、1596年12月8日の秀吉のキリシタン捕縛に始まり、1873(明治6)年2月24日のキリシタン禁制高札の撤廃までの277年間と、信教の自由が保障されていた明治憲法下、1931(昭和6)年の満州事変のころから1945(昭和20)年8月15日の太平洋戦争の終結までのいわゆる軍国主義による弾圧の期間である。この世界にも稀な長い弾圧の中で、死に至るまでの迫害は1597年の26聖人の殉教から約半世紀間であったが、今回列福される188人はその後期に殉教した日本人の信徒、修道者、司祭たちで、幼児から老人に至る町民、農民、武士などが含まれている。
教会は、どのように不利で厳しい条件下にあっても「賢く、また素直」に生きるすべを知っている。キリストの弟子たちは、どのような場合にも抵抗することなく、「屠り場に引かれる子羊のように」(イザヤ53,7)静かに耐え、求められるままに死に赴く。(ちなみに、島原の乱では2万人ものキリシタンが殺されたが、武器を取って抵抗したので殉教者とは呼ばない)。殉教者たちはまた、師キリストの模範と教えに従って迫害する者をゆるし、彼らのために祈りつつ息絶えた。わたしたちも、殉教者たちを記念し称えながらも、迫害した為政者やこれに賛同した同胞を恨むことなく、むしろ彼らをゆるし、彼らのために祈ることを忘れてはならないと思う。
今回列福される188人を含め、列福・列聖された日本の殉教者は435人に達するが、その背後にはもっともっと大勢の殉教者たちがいる。新井白石は「キリシタン殉教者は20万人に上る」と言ったというが、最近の歴史家は1万人とも2万人とも言い、尾原悟師は4万人と推定する(尾原悟著『ザビエル』178ページ)。このばらつきはキリシタンに関する記録がもともと存在しないか、あったとしてもキリシタン禁制ゆえに多くが故意に破棄されたためであろう。ただ、これら大量の殉教者のうち外国人は100人足らずで、あとは全部日本人である。この事実は日本人がいかに短期間でキリスト教を受容し、成熟させたかを如実に物語っている。キリスト教は日本人に合わないとか、日本には定着しないとかの議論があるが、そんなのは当てにならない。日本の宣教停滞の理由は他に探さなければならない。
平和憲法によって信教の自由が完全に保障されてすでに半世紀余、日本の宗教事情は平穏無事に見える。しかし、問題はそんなに簡単ではないと思う。民間には今なおキリスト教に対する偏見や差別が残っている。理性の自立を求めて神の介入を拒む近代合理主義は健在、キリスト教の大敵である拝金主義もますます盛んである。近年に至って一神教批判は有名人の口から公然と語られ、神以外のところに癒しと開放と自己実現を探すニューエイジやいわゆる新霊性運動(スピリツアル)は静かなブームだという。何よりも原罪に傷ついた人間性の内部矛盾は終生消えることはない。キリスト者にとって危険なこれらの誘惑や矛盾は一種の精神的な迫害であって、警戒を怠ってはならないが、しかし、恐れることはない。主は言われた。「あなたたちはこの世では苦しむ。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのである」(ヨハネ16,33)。