からだの復活と永遠のいのち

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > からだの復活と永遠のいのち

からだの復活と永遠のいのち

カテゴリー 折々の想い 公開 [2007/04/11/ 00:00]

キリストのイコン

キリストのイコン

以下は、先月あるグループに行った講話の要約である。

わたしたち人間の心には、いつまでも、永遠に、幸せに生き続けたいという、打ち消すことのできない強い願望があります。

人間のこの根源的な願望を阻むものは死です。死は人間を引き裂いて霊魂と身体に分解し、霊魂は残りますが身体は滅びます。人間はあらゆる手を尽くして死に打ち勝とうと涙ぐましい努力をしてきましたが、いまだに誰も成功しませんでした。この永生への願望を、エジプト人はミイラに託し、日本の仏僧は即身成仏にかけましたが、これらは成功したのでしょうか。しかし、ただ一人、イエス・キリストは、予告されたとおり、死んで三日目に復活して、死に打ち勝ちました。

まず、イエスの死は事実でした。イエスの処刑人たちはすでに息を引き取ったイエスの心臓を槍で刺し貫いて、その死を確認したからです。

イエスは死んで三日目に復活しました。復活とは「黄泉帰り」(よみがえり)とも言いますが、イエスの復活の場合は、死者の国すなわち黄泉から、生き返ってこの世に戻ることではありません。イエスの復活とは、イエスの身体が霊のからだに変容されて、神の国に入ることを意味します。神の国に復活したイエスは、もう苦しむことも死ぬこともない完全なからだとなって、神の喜びのいのちに永遠に生きるのです。

イエスの復活は科学的な手段で証明することはできません。霊だからです。しかし、イエスは「前もって選ばれた証人である」(使徒行録10,41)使徒たち、及びその他の弟子たちに幾度も出現してその復活を証明されました。復活したイエスに出会った人々は、イエスが生きておられることを確信し、言葉と行いをもって、特に使徒たちは死(殉教)によって、証ししたのです。

イエスの復活はわたしたちに、人間が死に打ち勝ち、復活して永遠に生きる道があることを示しました。イエスは生前、自分を信じることが復活への道であることを、次のように言われました。「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は死んでも生きる」(ヨハネ11,25)。わたしたちキリスト者は、イエスの復活を証言した使徒たちの信仰を受け継ぎ、キリスト自身の言葉を信じて、その日が来ることを希望しています。

わたしたち人間の復活は、この世の終わり、キリストの再臨のときに行われます。そのとき、わたしたちは新しいからだ、すなわち、霊であり永遠である神のみ顔を直接見ることのできるからだに変えていただいて、からだごと、つまり身体を備えた人間として神のもとに集うのです。こうして、永遠に幸せに生き続けたいという人間の根源的な願望は叶えられることになります。

この偉大な恵みに与るためには、キリストを信じて洗礼を受ける必要があります。洗礼によってキリストの死と復活に与る者となるからです。

以上が、わたしたちキリスト者の信仰の核心です。自ら死を克服して復活し、人類に永遠のいのちへ道を開いたのはイエス・キリスト唯一人です。イエス・キリストのほかに救い主はいないのです。