イエスの地、ナザレの出来事

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イエスの地、ナザレの出来事

カテゴリー 折々の想い 公開 [2008/01/25/ 00:00]

ガリラヤ地方

ガリラヤ地方

鹿児島カトリック女性の会伝統の読書会は続いている。今読んでいるのはロザリオの祈りを推奨する故ヨハネ・パウロ2世の使徒的書簡『おとめマリアのロザリオ』で、今年最初の読書会では序文の後半が読まれた。その中で、「とりわけキリスト者の心にとってもっとも親しい地であるナザレのイエスの地に特別な注意を払うことなしに、ロザリオを唱えることなどありえないのです」という一節があった。すると突然、「ナザレという町は本当に存在するのでしょうか」と、質問の声が上がった。「もちろんナザレは実在します」ということで一段落したのであるが、後で調べてみると、こんないきさつがあったようだ。

昨年12月30日(日)に「聖家族の祝日」が祝われた。この日のミサで読まれたマタイ福音書の「彼はナザレの人と呼ばれる」(3の23)について、『聖書と典礼』の注釈に「旧約聖書にはナザレという地名は登場しない」とあったのを、「ナザレという町はない」と早とちりしたのではないかということが分かった。ナザレは実在するどころか、新約聖書では極めて重要な地位にある。こうして、あらためて聖母マリアの町、そしてキリストの神秘に結ばれたナザレについて観想するよい機会が恵まれた。

ナザレはイスラエルの北、ガリレアの地にある小さな町(当時はおそらく小さな村)であるが、そこはまず、聖母マリアが大天使ガブリエルから神のお告げを受けた地、すなわち、神の御子の母になることを告げられ、「なれかし」(fiat)の一言をもってこれを承諾し、聖霊の力によって人となった神の御子を懐胎した聖地である。わたしは30年近く前、巡礼団に加わってこの地を訪れ、「お告げの教会」の中に立って深い感動に浸った体験がある。この場所はまさに神の御子の神性と人性が一つに結ばれた地であり、この地を通って永遠が時間の中に入った瞬間を永久に記念する場所である。

ナザレはまた、人間としてお生まれになった神の御子が、避難先のエジプトから帰国し、住み着いた思い出の町である。「ヨゼフは、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に帰り、ナザレという町に行って住んだ」(マタイ3,21-22)。そして、母マリアと養父ヨゼフの手厚い保護のもとで「イエスは知恵も増し、背丈も伸び、ますます神と人とに愛された」(ルカ2,52)。人間イエスはまさにナザレの地において、その人間性を豊かに育まれた。同時に、こうしてイエス・マリア・ヨゼフの人間家族は神の家族、聖家族になった。そして、幼子となった神の御子イエスの家庭生活を通してすべての家庭をある意味で聖化されたのである。

ナザレはさらに、神の御子イエスによって人間労働が聖化された記念の地である。成長するに従って人間イエスは大工として聖家族を支えた養父ヨゼフの手ほどきを受けて労働の尊さと厳しさを学び、ヨゼフ亡き後は自ら大工の仕事を通して一家の生計を支え、町の人々のために労働奉仕の使命を果たされた。こうして、人類救済のための労働の聖なる価値を明らかにされたのである。

このように見てくると、すべての人間の地上における生命の原点であり生活の基本である家庭と労働に関する真の意味と価値とが、イエスご自身のナザレにおける生活を通して明らかにされ、実現したという意味で、ナザレはまさに人類の新しい生き方の神秘が輝いている聖地である。

さらにもう一つ付け加えなければならない。現教皇ベネディクト16世は、去る元旦の平和の日メッセージにおいて、各人間家庭は人類家族、平和の共同体の原点であり、模範であることを強調された。それは、家庭において家族が互いにいたわり合い、助け合って平和を生きる原初の人間共同体であると同時に、社会の生きた細胞、社会を生かす細胞として、真の共同体を社会に広げてこれを実現する源泉であることを意味している。そのような重大な使命を持つ人間家族を自らの手で聖化されたナザレの聖家族は、まさに世界平和の出発点であったと言わなければならない。ヨハネ・パウロ2世は「キリストは家庭を通ってこの世に来られた」(家庭への手紙2)と言われたが、世界平和も家庭を通って来たのである。