イスラム教指導者、教皇と会談へ

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イスラム教指導者、教皇と会談へ

カテゴリー 折々の想い 公開 [2008/03/25/ 00:00]

諸宗教対話指針『対話と宣言』

諸宗教対話指針『対話と宣言』

去る3月6日、南日本新聞朝刊にローマ発の小さなニュースが載った。
「英国、ヨルダン、トルコなどのイスラム教指導者らが5日、ローマ法王庁(バチカン)でバチカン高官と四日に引き続き会談、指導者側代表が十一月に法王ベネディクト十六世と会談することで合意した。バチカンが発表した。キリスト教とイスラム教の融和をアピールするのが狙い。バチカン当局者は、「歴史的」な会談になると評価した。十一月四日から六日までローマで、双方の対話の場となる「カトリック・イスラム教徒フォーラム」が開かれる予定で、期間中に複数のイスラム教指導者の代表が法王と会談する。代表の人選は今後、イスラム教指導者側が進めると見られる」。

キリスト教と伝統的諸宗教との関係は、歴史上ではいろいろの確執もあったが、聖書をはじめ、キリスト教的伝統の根底には、人類はその起源と目的において一つであること、また、神は創造のはじめから全人類と契約を繰り返して人類をご自分に招いていることを確信してきた(教皇庁文書『対話と宣言』参照)。そして、歴史が進展し、世界が文字通り一つとなった現在、諸宗教間の対話は避けて通れない必然的な要請となった。こうして、第2バチカン公会議は伝統的諸宗教との対話路線を明確な形で確立したのである。こうした状況の中で、カトリック教会とイスラム教との本格的な対話がようやく実現しそうになったことは意義深い。わたしは大きな期待を持ってこの動きに注目したいと思う。

そこで、第2バチカン公会議がイスラム教に対してどのような理解と姿勢を打ち出したか、公文書を通して振り返ってみたい。まず、『教会憲章』は次のように述べる。

「福音をまだ受けなかった人々も、いろいろな意味で神の民へ秩序づけられている。まず、かつて契約ならびに約束が与えられ、またキリストが肉によりそこから生まれたもうかの民、すなわち選びにより太祖たちのゆえに最も愛された民(筆者注・ユデア民族)がそうである。(中略)しかし、救いの計画は創造主を認める人々をも包含するものであって、そのような人々のうちには第一に、アブラハムの信仰を保っていると主張し、最後の日に人々を審判される唯一にしてあわれみ深き神を、われわれとともに礼拝する回教徒(筆者注・イスラム教徒)が含まれる」(教会憲章16)。

このように、神の民、すなわち「救いの普遍的秘跡」である教会への人類の秩序付けにおいて、イスラム教徒はユデア民族に次ぐ第二の位置づけがなされている。次に、『キリスト教以外の諸宗教に対する、教会の態度についての宣言』においては、次のように述べられる。

「教会はイスラム教徒をも尊重する。かれらは唯一の神、すなわち、自存する生ける神、あわれみ深き全能の神、天地の創造主、人に語りかけた神を礼拝し、イスラム教の信仰がすすんで頼りとしているアブラハムが神に従ったのと同じく、神の隠れた意志にも全力を尽くして従おうと努力している。かれらはイエズスを神としては認めていないが、預言者としてあがめ、その母である処女マリアをたたえ、時には敬虔に彼女に祈る。かれらはさらに、よみがえったすべての人に神が報いを与えられる審判の日を待っている。したがって、かれらは道徳的生活を尊び、特に祈りと施しと断食をもって神をあがめている。

諸世紀にわたる経過の中で、キリスト教徒とイスラム教徒の間に少なからざる不和と敵意が生じたが、聖なる教会会議はすべての人に、過去のことを忘れ、互いに理解し合うようまじめに努力し、また社会正義、道徳的善、さらに平和と自由を、すべての人のために共同で守り、かつ促進するよう勧告する」(3項)。

なお、「イスラム教原理主義」について一言。「自分が正しい、良いと考えることを他人に押し付ける権利を主張するファナティシズム、ファンダメンタリズム(原理主義)の危険」(回勅『新しい課題』46)は多くの宗教的イデオロギーに見られるが、イスラム教原理主義者も、しばしば話題に上るとおり、対話を拒否し、自爆テロなどの暴力に走るのを見るのは悲しい。イスラム教徒との対話の発展を期待すると同時に、すべての原理主義者が一神教本来の愛の精神に立ち返るよう祈らなければならないと思う。